国立民族学博物館館長の須藤 健一先生の講演がありました。
須藤先生は、1975年に助手として民博にはいり、梅棹先生が館長を退官される1993年まで勤務、その後神戸大にうつられましたが、2009年から第5代館長としてふたたび民博にもどってこられました。創設当時の民博を知るお一人として、「みんぱくのご先祖 梅棹忠夫」というタイトルで梅棹さんとみんぱくについてお話しいただきました。
はじめに-「知の巨人」と21世紀
吹田にみんぱくができて37年になる。最近は来館者数が少なくなっているのが問題だ。
梅棹さんは小学校時代は昆虫少年。中学高校では山登りをしつつプロ顔負けの植物採集をした。大学では動物学を始めた。卒業後は1944年にモンゴルに行き人間に関心をもち、民族学を始めた。やがてその範囲はアジア、アフリカ、欧州の民族学に広がり日本との文明の比較へと進んでいった。きょうは21世紀に生きる「梅棹の美学」を考えてみる。
1・みんぱく前史-日本に民族学博物館を(1936年~1972年)
昭和のはじめに民族学博物館をもってない文明国は日本だけだった。
渋沢敬三氏は、1921(大正10)年から、自宅屋根裏に私費で日本の民具類を収集した私設博物館「アチックミューゼアム(屋根裏博物館)」を作っていた。1930年代になると、そこが手狭になってきた。渋沢氏らは1934年に日本民族学会を設立、学会レベルで財団法人日本民族博物館設立を構想し、要望を政府に出したが進まなかった。皇紀2600年(昭和15年)を記念する政府の企画募集に博物館建設の建議書を出したが戦争のため流れた。
渋沢氏は1937(昭和12)年に東京保谷に土地と建物を寄付し、日本民族学会附属研究所と附属博物館を建築した。収蔵品は戦禍を逃れたのだが戦後に財閥解体、公職追放にあい、1962年に全資料を文部省に寄贈した。文部省に保管されていた資料は1975年民博にひきつがれ、現在収蔵庫に2万1千点ほどある。うち600点ほどが展示されている。
渋沢敬三氏はみんぱくでその資料を梅棹さんが引きつぐまでの親だった。梅棹さんは「みんぱくは渋沢の遺言だ。私はそれを守ってる。」と語っていた。
一方岡本太郎はフランスで民族学を学んだ。万博で太陽の塔の地下に世界の仮面、神像を展示することになり、梅棹さんの主導で約20名が世界民族資料収集団を結成し約2600点の資料を収集した。
梅棹さんは、この万博を機にいっきに民族学博物館設立までもっていこうと考えていたようで、終了後、政府に民族学博物館の必要性を説いてまわり、ついに設立にこぎつけた。万博跡地を自然と文化公園とすることになり、1974年6月大学教育設置法にもとづき国立民族学博物館が万博跡地にできた(→∴みんぱくは、東博、京博、奈良博のような文化庁管轄の博物館ではなく、文科省の管轄下にある大学である)。
2・みんぱく誕生-梅棹さんはみんぱく創設までのリレーの中間ランナー
梅棹さんは1974年「私はみんぱく創設までのリレーの中間ランナー」と言ってる。そしてみんぱく創設には「天のとき」「地の利」「人の和」があったとも語っている。「天のとき」とはその時代背景がよかったこと。「地の利」とは万博跡地であり「人の和」では柳田国男、岡本太郎、学会の人間、大学の人などの協力があったことである。
創設時34人いた先生たちに梅棹さんは「俺たちは先祖になろう」「34人は実績をあげ弟子を育て世界一流の博物館となるよう全員は常に改革して進歩していかなくてはならない。文明のアヴァンギャルド(前衛部隊)たれ」と尻をたたいた。そんな中75年10月に私(須藤)は民族学博物館に入った。
3・博物館と博情館-ものと情報を収集、整理、創造、伝達する拠点
77年2月にみんぱくの建物ができ、77年11月展示場がオープンした。モノに触って対話する展示をめざし、みんぱくは露出展示をしている。世界の博物館の常識からするととんでもないことだと言われたが、今まで展示物が盗難にあったことはない。また、梅棹さんは「博物館はモノを展示するだけでなく、情報も扱わないといけない。展示と情報がないと世界を判断する情報を与えられない。」と考え「入館者が見たいものを選んで展示物の背景の知識を得る装置」としてビデオテークという世界ではじめての装置を作った。
梅棹さんは「世界の文化は(進んだ、遅れたではなく)同じ価値を持ってる。」という相対主義という考え方で、地球を9つの地域に分け各々が平等で同じ価値を持ってるという基本思想でみんぱくをレイアウトした。そして「世界の人が使ってるものを触って、音を出して、使ってるものを体験して相手の社会、文化、こころを体験してわかってください。」さらに「博物館ではものと対話しなさい。物は世界のどの場所のものであっても生活に必要なもの。モノを通して文化の多様性から文明を知りなさい。そして日本の文明を知ることで日本の文明も世界の文明のひとつだとわかってくる。」という基本思想で展示した。
さて、みんぱくは何のための大学、研究所なのか。市民の知的欲求、関心、興味を満足させなければならない。しかも「教える、啓発」ではなく「与えてともに考える研究の場」にしないといけない。みんぱくの先生方のもつ知識、情報を市民にどのように伝えるのか。そのためには月に一回市民と交わる場を設けなければならない。「毎月一回市民と接しなさい」という梅棹さんの考えから81年11月から始まった「みんぱくゼミナール」は今年400回となる。
みんぱくは1977年に開館して3年間で200万人の入館者があった。しかし2008年の入館者は14万人にまで減少している。現在30万点のモノがみんぱくにある。
梅棹さんは開館当時「いち日に800人、年間25万人以上来てほしい。」と言ってた。しかし昨今14万人。私(須藤館長)は年間20万人を目標としている。2009年度は達成した。そのためには「待ちの姿勢」はだめ。「街に出よう」と大阪市内などで講演会をしている。しかし今年度は20万人の達成はしんどい。
梅棹さんの研究
はじめての探検調査は1941/7~10月太平洋のポナペ島※の調査。そこで今西さんから植物、地形、生態、人間を見る目を教わった。当時学生だったのに梅棹さんの紀行文はすばらしい名文だ。※ポナペ(Pohnpei)島:西太平洋カロリン諸島のミクロネシア連邦の島
梅棹さんにとって本格的調査は1944年のモンゴルだった。今西さんと4か月の旅に出たが戦争になってしまった。
1955年に京都大学がカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊を派遣した。梅棹さんはアフガニスタンの山中でジンギスカンの子孫と出合ってる。このときの調査を記したのが『モゴール族探検記』(岩波新書)で、現在もなお版を重ねている。
4・みんぱくの研究-ひらめきをノートに記録せよ
梅棹さんはスケッチが上手。自画像もうまい。その梅棹さんは言う。「直感、ひらめきが調査では重要だ。すべて記録に残しなさい。」そしてフィールドノートにはスケッチがたくさん書かれている。物の特徴をとらえ何を描けばいいのか直感的にわかる人だった。
文化人類学者、民族学者にとって直感、インスピレーションは大切だ。知らない土地に行って最初のひらめき、第一印象が最後まで残るものだ。その第一印象に従ってその人々の社会、文化を記述して描ききれたら立派な民族誌になる。
私(須藤)は75年にみんぱくに入った。そして沖縄海洋博の資料集めをした。梅棹さんは私の論文を読んで「どこに須藤のオリジナリティ、独創性があるのか」と言われた。「他人の論文に従った文章を書いたのではダメだ」と徹底的に言われた。「論文の中に自分の考えがない、論理の展開がないものはダメだ」と何度も赤ペンで直された。
小学校のころから昆虫採集をし、植物採集し探検をした体験を通して常に他人が気づかない新しいものを見つける姿勢が梅棹さんの研究を貫いている。
「自分の足で歩き、目で見て、頭で考えてそして独創的成果を出しなさい。」と梅棹美学を私たち弟子にいい伝えていた。そして「みんぱくは研究所だから研究する自由は認めるが、研究しない自由はないよ」「なまけるな」と徹底的に言われた。
1980年代になると「給料を論文の原稿用紙の枚数で割ってみろ」と60人の成績を公表した。すると原稿用紙1枚の値段が156万円という高給取りが出た。「司馬遼太郎より高い原稿料をもらって何をしてるのだ」と言って緊張感を持たせ競争させ「ご先祖になれの原点に戻れ」と常にたるみのない環境を作っていた。
一方、国際化のために毎年10日に及ぶ合宿するシンポジウムを96年までやっていた。異なるテーマで年間4つくらいのシンポジウムが開かれていた。
その結果を英文で報告することで、やがて外国の図書館に英文でならぶことでみんぱくの研究成果が世界的に評価されるようになってきた。梅棹さんだからできたことだろう。
86年に失明されたが、88年に朝日賞とフランスの最高の学術賞(パルム・アカデミーク勲章コマンドゥール章)、その後、文化功労賞や文化勲章ももらってる。
おわりに-梅棹さんの遺言
梅棹さんは私たちに何を教えてくれたのか。
「地域の人々から愛されない博物館の将来はない。「Dead Museum(死んだ博物館)だ」とたびたび言われてた。いま民族学博物館には60人の先生がいる。毎年海外へ40~50人が出てる。多くの情報を持って帰ってくる。公開講座で市民にお話したくてお願いはしてるのだが吹田市の教育委員会は民族学博物館を公開講座に呼んでくれない。しかし浜屋敷の「みんぱく夜話」でお話しする機会がある。多くの先生も吹田の市民と接して吹田、大阪を語る場を作って行きたいし吹田市からもオファーをしてほしい。地域の方々にわからないことをやってはいけないのだ。地域の方々の知的欲求を満たすようにみんぱくでは図書、映像をそろえている。単に情報だけでなく先生とじかにあうという博物館にしたい。
恒例のカンチョー乱入
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カンチョー 博物館というのは地元の人のサポートがないと成り立たない。みんぱくにいるときから梅棹さんに、「人が来る博物館をつくらないといけない」ときつく言われていた。わからなくても立派なモノを飾っておけばいいんだという、しっかりした伝統のある博物館を、ぐじゃぐじゃにしたために、うちはおもしろい展開をしていると思うが、どうか。
須藤館長 小山さんは素っ頓狂な発想をする人で、そのアイデアを恥ずかしげもなく、やってしまう(笑)。千里ニュータウン展という考現学的な展覧会をするのにはびっくりした。小山さんじゃないとできないと思った。
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カ 今回、写真展をやるにあたり、プライバシーや著作権などの問題でたいへん苦労した。民博からのものも規制をうけるものがあった。
須 民博をもっと利用してと言っているが、そういうさまざまな問題が絡み、すべての資料を自由に使ってもらうようにはなかなかなっていない。
カ 梅棹さんが、よく情報というものを考えたなと思ったのは、プライベートなことを梅棹資料室から切り離していること。
須 梅棹さんは、徹底したコレクター。外国の博物館パンフレットなど、細々したものまでそっくりそのまま残している。
カ 集めているときには、あとで使えるか使えないかなど考えていたらできない。わたしはアボリジニの工芸品を買うとき、この棚、全部という買い方をした。
須 あなたは集めっぱなしだけれど(笑)、梅棹さんがすごいのは、集めたモノを全部きちんと整理している。
カ それは頭の違いで、ぼくの脳の構造は複雑。梅棹さんは単純な構造になっていて、情報を入れると、トコロテンみたいにさーっと整理されて出てくる。わたしのは、ぎゅうぎゅう詰め込んで、ぽとりと1コでてきたら成功。
須 梅棹さんが、それは一番わるい整理の例だと言っていた(笑)。いつでも簡単に引き出せるように分類してはいけない。配列せよ、と。シンプル イズ ベスト。梅棹さんの頭の方が、ずいぶん進化している。
カ この人、わたしが助教授で入ったとき、助手だった。その時からお説教のクセが・・・(笑)
須 最近は複雑の方が進歩しているみたいに思うけれど、ちがうんだ。
カ 梅棹さんは、言うことがずいぶん矛盾している。牧畜民はモノを持っていなくてスカッとしている、気分がいいと言う。なのに、自分はおそろしいほどの資料を貯め込んでいる。
須 膨大な資料が残っている。しかし、それが整理されていて、さっと出てくるようになっている。
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須 吹田のボランティアの方々は、多様な視点をもったグループが活動している。
カ うちの博物館は、ほぼすべての展示に市民委員会というのがつくようになった。これがまた、うるさい連中(笑)がいっぱい集まっていて、なかなかおもしろい。・・・ボランティアを入れて活動するのは地域博物館の特徴かもしれない。民博と比べて、すいはくは、そういうところに突っ込んでいきやすいかもしれない。
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最後にフロアからいくつか質問を受けて、15分ほど超過して終了しました。
(こぼら おーぼら きょうちゃん)
コメント
ざっと数えて5500文字。原稿用紙14枚。チョー大作ですね。
さて原稿用紙一枚当たりナンボやろ?