『柳田国男と梅棹忠夫 -自前の学問を求めて』
著者 伊藤幹冶、2011 岩波書店 ¥2700
「ウメサオタダオ展」はきのう6/14日(火)おわりました。開幕して2日目に東北大震災があり、観客動員という点では出だしでつまずいた、しかし、その後客足が回復して5、6月にはけっこうたくさんの人が来て、(いまは、どこの博物館も観客減に悩んでいる)久しぶりに賑わいが感じられました。期間延長の要望もずいぶんあったそうです。
催し物もいっぱい、とくに毎週、日曜日の「名誉教授によるギャラリ・トーク」は人気があったそうです。みんぱくには古くからの友の会会員がたくさんいるし、館員もセンパイの創設期の熱気に満ちた話が聞けてなつかしかったのでしょう。
そのなかで伊藤幹治先生の「梅棹忠夫と自前の学問」の講義がおもしろかったと(わたしはすいはくの行事とバッティングしていけなかったけど)。伊藤さんはみんぱく開設時からいた「ご先祖さま」グループの1人、ながく部長をつとめられていました。わたしは、その配下となったので、頭が上がらなかった(いまもそうですが)。
あのころのみんぱくの研究者は、おおむね東と西にわかれ(ソフトボールを東西対抗でやっていました →右写真 1976年。後列中央筆者)、研究分野も「専門に閉じこもるな」というウメサオ式のため多様でした。伊藤さんは「民俗学」のエースとして東京から送り込まれた人で、学問のオニみたい。須藤現みんぱく館長はまだ助手で、「博物館なんか来なくてもいい、論文を書け」といつもいわれていたそうです、「一昨日も、同じこといわれたよ」とぼやいていました。伊藤さんは、行政面でもなかなかの手腕を発揮、手下どもはしょっちゅう家に押しかけ酒などたかっていました。
伊藤さんは柳田國男の最後の弟子(敬愛をこめて「ヤナギタのじいさん」といっていた)で、定年後は、柳田文庫のある成城大学につとめていました。みんぱくでは梅棹の下にいたのだから、日本の民俗学・民族学の2人の巨星の薫陶を受けるという稀有な敬虔をしたのです。その結果、両者の違いと共通点ななにかと考え続ける事になったのでしょう。本書はその成果なのです。
そういえば、あの頃から、「柳田國男は連ねる、梅棹さんは貫くかなー」といっていましたが、連ねるとは広く実例を集めること、貫くとは理論を先行させると考えていいのでしょうか。梅棹さんは理論派であることはたしかですが、梅棹アーカイブの存在からみても、連ねるに重点があったことは明らかです。本人から「わしは連ねるや」ときいて安心・納得したそうです。
第2の点は、学問が「世に役立つものかどうか」と考えていたかどうかについて。柳田さんは明らかにそうですが、梅棹さんは「学問はしょせん遊びや」とのたまわっている。しかし、それはあくまで「私的な」思いで、みんぱくの創設動機やその後の人づかいのアラさをみると絶対そうではないと私は断言できます。
第3は、学問に対する2人の意気の荒さで、当時は当然だった還暦祝いの儀(=引退)に対して、決然と拒否し、むしろそこから学問の新しい道を開いていったことがおもしろかった。
伊藤さんの結論は柳田も梅棹も、日本人のアイデンテティとして、民俗学、文明学をう確立てようとしていたこと、言い換えれば、滔々と押し寄せてくる西洋文化に対し、ひれ伏すのではなく、自前の学問を打ちたてようとした頑強な意志だったと気がついたことでしょう。
先生や先輩、友人にかかわる回顧録的な面もあるのですが、つねに出典を明らかにし、端正な文章で書かれていることに、改めて敬意を表したいと思います。
(カンチョー)
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