わが町シリーズ3

わたしたちが鍵っ子になったわけ-行動する母親たち-

ニュータウンの小学校にあがってまもなくの昭和41年の頃でした。急に「ママが忙しくなり、家に帰っても留守だ」という子が増えました。
小学校低学年だから、まだカギを持たせてもらえなくて、家の中に入れません。それで、放課後おそくまで学校に残ったり、庭で犬と遊びながら待っていました。友だちと話していると、木製の窓枠のすきまから定規を突っ込んで、ネジ式のカギをゴチョゴチョ動かしていたら、ついにゆるんで、家の中に入れたことがあったとか、あまりにママの帰りが遅いのでお腹がすいて、近くのお店で出前を頼んで犬と一杯のうどんを分けあって食べていたとか、いろいろなエピソードが出て盛りあがります。

そんな状態になったのは、焼却場問題が持ち上がったからです。住宅分譲時のパンフレットに「緑地」と表記されていた場所に焼却場が建設されることがわかり、母親たちは反対運動をはじめたのです。予定地は、竹藪がひろがる場所で、田んぼに咲くレンゲを摘んだり、悪ガキたちはタケノコを失敬したり、かっこうの遊び場でした。犬の散歩コースにしていた人も多かったと思います。

この問題はすぐには解決せず、学年が上がると次々とカギっ子になりました。運動が成功した後も母親たちの活動は終わらず、緑地の保存運動へと続いていきました。その結果、ヒメボタルの生息地として知られている高町池周辺の緑地が残されました。子どもの頃は夜遅く出かけたことがないので、残念ながらホタルの記憶はありません。ぜひ一度ホタルの時期に里帰りして、若かったママたちの情熱の日々に思いをはせながら眺めてみたいものです。 (き)

コメント

  1. てつ より:

    私も鍵っこでした 当時はパートなんてものはなかったと思うのですが 母が 関大前の喫茶店にアルバイトに行き そこで覚えた美味しいホットドッグを 作ってくれました その後 趣味の洋裁を生かす為 とある有名な先生の元に 通ってたんで ずっと 鍵っこだったかな? 高町の池 今 柵で囲まれてますが 昔 南千里駅の釣具屋「南翠(なんすい)」 で買った釣り道具で 通いまくったもんです 今の仕事の18歳年上の先輩 ず~~~~っと たかまちの池に釣り糸垂れて来た人 身近にいます(^^)

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