わたしと万博(46)…みんぱくへの道

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1970年の夏、東京の中学に通っていた私は、父の単身赴任先であった高槻市で休みを過ごしていた。その年の初夏に、運動会の練習で膝を痛め、入院を余儀なくされた私は、授業についていけず、完全な落ちこぼれとなっていた。こころの救いは、あこがれの地、関西で休息することであった。大好きだったテレビ番組「真珠の小箱」をたどり、京都、奈良を巡り歩いたことが、その後の人生をどれほど左右することになったか、当時は自分でも気づいていなかった。

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ただ、いずれ、こうして過ごした日々を懐かしむときがかならずやってくると、確信していたことだけは覚えている。旅先の記憶にとどめるためなら、どんなものでも集めたがるのはその頃からの癖であろう。今でも持っている万博関係の資料もその一つである。

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1970年8月4日、坊主頭の中学生であった私は、小遣いで購入したインスタント・カメラを片手に、一人で万博会場に向かった。会場に向かうバスの中で決めていたことは、外国のパビリオン以外は見学しない、ということぐらいだった。こうしてお祭り広場を横目に最初に向かった場所は、なぜかオンタリオ州館であった。まさか、後年、その跡地に建つ国立民族学博物館に勤務することになろうとは・・・・。

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ガイドブックや地図に押したスタンプを今見ると、ニカラグアやドミニカ共和国といったマイナーな国から、ソ連、アメリカ合衆国などの大国のパビリオンまで、一生懸命という言葉がまさに当てはまるほど、勤勉に見て歩いたことがわかるが、鮮明な記憶は意外なほど残っていない。むしろ、万博へ行くたびにバスで通り過ぎたエキスポロード沿いの釣具屋で竿を揃え、桂川で糸を垂らしたこと、その体験談を釣り雑誌に投稿し、採用されたこと、生まれ育った東京にはほとんどなかったお好み焼き屋に通ったことなど、なにげない経験の方が、忘れられずにいる。とはいえ、こうした関西のイメージを植え付けた体験の背景には、いつも万博があった。万博は、刷り込まれた記憶なのかもしれない。

(関雄二)

関先生のご専門は、アンデス考古学。今は約3000年前の神殿を掘っているそうです。
写真は、すべて当時、ご本人がお小遣いではじめて購入したというカメラで撮影したもの。上から4枚目は、カナダ館内部。 (こぼら)

コメント

  1. こぼら より:

    てつさん、ピンポーンです。カンチョーが旧ブログの「わが町」に書いていた、民博の利休鼠色の建物のエピソード(http://www.doblog.com/weblog/myblog/59738/2168182#2168182)を再録しますと・・
    「ミンパクの本館が完成した後、テレビ会社から使用させてほしいという話がありました。何に使うのと聞いたら「悪魔城」と。四角な、クローイ建物が、彼らのイメージを喚起したのでしょうね。アクマみたいな奴はいっぱいいるけど、どーもねーといってことわりました。」
    あれから30年、one of アクマがすいはくにやってきた??

  2. てつ より:

    そおかぁ オンタリオ州立館があったところに みんぱくがあったのかぁ
    って あんだけ 大きなみんぱく もっと多くのパビリオンにっかかってそうだけど?違うかな?(^_^;

  3. okkun より:

    せんい館、スイス館、インド館などかかってるようですね。

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