晴れ上がって遠くの山がよく見えた。そうだあの風景を撮りに行こう。私のふるさとには町から一里ほど北に、七宝山という400mくらいの山があり、その頂上に式内社のイナズミさんがある。そこから階段を下ると、鳥居に枠取られたように、海を背景にしたきれいな円錐形をしたツクモ山がみえる。山信仰は世界に共通したものだが、日本では、浅間型(富士のような高い山)と神奈備型(円錐形の低い山)の二つがある。ある事典に執筆を頼まれ、神奈備型の挿図にあの風景をぜひとも入れたいと思っていた(もう最終ゲラを渡したので手遅れなのだけど)。はじめて見たのは中学生の遠足だった、以来、私のこころの風景なのだが、写真に収める機会がなかったのである。
イナズミさんは最近林道が整備され、昔は一日がかりだった頂上にすぐ着いた。道ができたので、村人が張り切って整備にかかっている。昔は細い木だった鳥居は大きな石造となったが、せまいので位置がズレている。そして、あたりはブルでかき回されて更地のようになっていた。いささか鼻白むほどにすべてが簡単、それでも、「なにごとのおわしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠んだ西行さんの気持ちがよーくわかりました。
吹田アーカイブ展で、鎮守の森を中心にした展示をしてみればどうだろうかと考えている。吹田という都市における自然のあり方を考えることができると思うからだ(動・植物については「すいた市民環境会議」によって豊富なデータが蓄積されている)。しかし、鎮守といえば神社となり、特定の「宗教」を取り上げるのはいかがなものかという議論が出そうだ。たしかに、大きな神社ばかりでなく、小さな村の神社も宗教法人となっているのは確かだが、多くは税金対策らしく、村の長老が神主を勤める程度。行事をみても初詣、七五三、春、夏、秋の祭り、家内安全、合格祈願などといった日常的な願いをうけるものばかりで、(欧米で考えるような)排他的な宗教的メッセージを伝えるものはない。 歴史的に見ても神社は村共同体の生活の中心である村の運営(寄り合い、倉庫)、娯楽(おまつり)、信仰(祭事、祓い)のための場所、そして何よりも自分の生まれ育った土地への愛であった。そしてそれは、今も変わらない。自然を敬う心を育む場所としての鎮守の森を考えてみたいと思うのである。
(カンチョー)
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