梅棹先生に市民から「送る言葉」を

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梅棹忠夫先生の逝去が明らかにされた6日の夕刊は各紙ともたいへん大きな扱いで先生の逝去を報道しました。読売と毎日はトップ、日経、朝日、産経も一面で報じました。ひとりの学者の訃報としては異例の扱いで、「知の巨人」梅棹先生の存在の大きさを感じさせる出来事でした。とくにマスコミ・報道機関にとっては、「情報産業」という概念をうちたてた先生の功績は、自分たちのアイデンティティにかかわる重みを持ち続けているのではないでしょうか。むしろインターネット、デジタル化の浸透でメディアのあり方が急激に変貌している今、梅棹先生の「情報」に関する論考は、あらためて輝きを放っているとも言えるでしょう。

このブログへのアクセスも急上昇しました。「梅棹忠夫」というキーワードがこのブログには多数登場するため、先生のことを調べようとする人が検索でたどりついたのだと思います。千里に住まいし、「博物館」というものを市民に近づけようとした先生の姿勢は、私たちが意識している以上に、カンチョーを通じて「すいはく」のよりどころになっているのだと思います。

このブログ記事のコメント欄に、先生を送る言葉をお寄せください。

短い言葉でも、長い言葉でも、けっこうです。吹田市民でなくても、直接先生をご存じない方でもけっこうです。いわば「ブログ記帳所」という趣向です。

●写真の中央左は、1981年刊の「博物館と美術館 館長対談」。(亡父の書棚にありました。梅棹さんと同じ年齢だった父も梅棹さんのファンでした。)全国の博物館・美術館の「館長」と梅棹さんが対話するという趣向ですが、「まえがき」にはこんな一文も…

なお、対談本文中に、発言者の名をしるさずに、「-」でしめした部分は、主として『月刊みんぱく』のこの年度の編集長をつとめた国立民族学博物館助教授小山修三氏による話題誘導の発言である。同氏には、ほとんどすべての対談に同席してもらった。

で「-」の部分を見てみると…

-博物館のいろいろなところを見ていますと、特展をやることによって館員のエネルギー、ポテンシャルがあがるようですね。
とか、
-両館とも露出展示ですね。
とか、興味深い発言も…カンチョーの方向というか運命は昔から決まっていたのかも…?

カンチョーは今、取材攻勢でへとへとになっているようです(きのうもフォーラム中に寝るかと思った…)。なので私から「ブログ記帳所」の提案をいたしました。

皆さんのメッセージで梅棹さんを送りましょう!

(by okkun)

コメント

  1. きょうちゃん より:

    黙祷

    1.梅棹先生を最初に、知ったのは岩波新書の「知的生産の技術」(以下@:-O)でした。
    2.サラリーマン1年生から、岩波新書は「積ん読」で、「毎月(2~3冊)、出版されるものを買い求めたのは・・与謝野鉄幹・・人を恋ふる歌 
             妻をめとらば才たけて ・ 顔(みめ)うるはしくなさけある
             友をえらばは書を読んで ・六分の侠気四分の熱↓
    -酒の力も一役買っていたかも-
    を愛唱していた「学生時代」に影響されたのかもしれない。
    3.@:-O時・・サラリーマンは、江戸時代から連綿と続く「読み・書き・そろばん」は、いわば人力そのものであつた・・この@:-Oを読み、書き・・「ローマ字・タイプライターに、ハットさせられた。
    ・新語・・「情報」にもびっくり、そして 買う・買う  情報本・雑誌・・得た「情」 のキーワードは「な  さけ」・・「報」のキーワードは、報告・・そして、サラリ ーマンの3語は、「ほうれんそう<報告・連絡・相談>いわば、グッドコミニケ ーション クィツク リスポンス ・・「あ うんの呼吸の一歩手前」を得るこ とだな
    ・洋画では、タイプライターは見たこともあつた
    ・「そろば」は、出来きたものの、「タイガー計算機」

    又、 続けます。

  2. てつ より:

    やはり 思い出は 千里ニュータウン展にいらっしゃった事
    そして わたしと万博展 で小山館長が 万博に関する展示なら
    まず第一に 梅棹先生をそのまま展示したいと言われていた事
    まあ それは無理として 第一展示室に 先生のコーナーが出来た事が やるな(^o^)
    でした カンチョーに一勝ぐらいさせてあげたかったなぁ♪

  3. Shochan-O より:

    私が、できるビジネスマンを目指していた時に読んだのが「知的生産の技術」(1969年発行)、高度成長で世界における日本をの存在を意識した時に読んだのが「日本とはなにか」(1986年発行)、民博ファンで、吹田の住民であることを誇りに思い始めた頃に読んだのが、「千里ぐらし」(1990年発行)でした。私にとって常に、身近な大先生と言えば梅棹先生でした。
     民博内で偶然お逢いして、ミーハー根性でお声掛けをしたところ、静かなトーンで答えてくださった思い出は忘れません。

  4. すいはくファン より:

    梅棹先生の逝去とひきかえに、てつの復活がなによりうれしいです。

  5. てつ より:

    なんだか こそばゆいですね(^_^;
    でも すいはくファンさん ありがとうございます
    おとなしい「てつ」は 書きはじめると 止まらないですよ いいんですか?(^^ゞ
    梅棹先生の事は 昔 小学館の ビーパルに紹介され
    ていたのを記憶しています
    今回お亡くなりになられたのは カーラジオで午後2時のニュースで知りました
    お会いした事はないのに このブログ(前身分を含む)でいつも読んでいたので なぜか涙がとまりませんでした。

  6. okkun より:

    「梅棹忠夫展」を、やらなくっちゃですね。てつさんが先生の本を朗読します。ビーパルにも出てたってのが、すごいですね。

  7. てつ より:

    梅棹忠夫展

    いいかも・・・ 展示には 第二展示室には 生小山修三氏に常駐していただき
    梅棹先生のすべてを語って頂きます
    これで「パトカン」卒業
    報酬?いえいえ 展示物ですから 当然 ございません(^^)

  8. Tadashi@くじら より:

     三内丸山遺跡での小山先生の講演会で梅棹先生のお話をお聞きしました。三内丸山遺跡の理解について重要な方向性を与え、遺跡を守り、活用する市民活動も重要であるとというお考えをお持ちであったとお聞きました。
     高齢になってから視覚に障害を持たれたともお聞きしました。民博が視覚障害者に優しいのはそこから来ているのでしょうか。
     梅棹先生の生き方は、視覚障害者にとっても大きな希望になると思います。私自身も視覚障害者であり、視覚障害者の教育にも携わっています。しかし、小山先生にお聞きするまではほとんど知りませんでした。これから先生について、少し勉強し、伝えていければと思っています。
     ご冥福をお祈りいたします。

  9. okkun より:

    梅棹さんの文章はわかりやすくてやわらかくて、そんなところもマスコミに重宝された理由だったと思いますが、その秘密は「ひらかな」がおおい独特の字くばりにもあります。これ、カンチョーの文体も似ています。いちど「梅棹文体」について考察してみたいものです。

  10. 長江 より:

    梅棹先生は本当に呑むのがお好きな方でした。三内丸山でご一緒したとき、主催者の用意した昼食はお重のお弁当とお茶、先生のお顔を見て、何かが足りないとビールを買いに走ったおぼえがあります。ご子息のマヤオさんによると、最後に乾杯しましょうという主治医の提案で、ワインセラーにあった先生の大好きだったワインをちいさなスプーンに三分の一ほどおいしそうに口にされ旅立たれたようです。最後まで楽しんでつらぬかれた先生の人生に乾杯。

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