明治初期に書かれた『斐太後風土記(ヒダゴフドキ)』という本がある。当時飛騨には415の村があり、村ごとの産物が、野生食も含めて詳細に書かれている。私はこれを縄文時代研究や民俗生態学の調査につかってきた。この頃の、飛騨の主な農産物はヒエやアワなどの雑穀で、そこにコメが入りつつあるという状態 だった。山がちの飛騨は寒冷な気候で、水田を作るのが大変だったらしく、基本的には雑穀、豆、野菜(カブ)を常畑と焼畑でつくっていたのである。
コメは、奈良時代の班田制以来、日本人の主食であり、江戸時代は領地を石高であらわしていたように、経済的な基準値でもあった。日本人の米至上主義とも呼ぶべきものは、戦後の食糧難の時代を経て、つい最近まで頑固につづいていた。政府による田圃整備がそれである。山村でも風景は画一的な までに水田の村になっている。ところが、最近は、コメあまり現象がおきて値段が下がり、政府は逆に減反政策をおしすすめているのである。
山村の人々は、時代変化の洞察力のかけるドロナワ式農政にゆさぶられ苦しんでいる。野麦峠に近い村に行ったら、かつての畑が、キカイで強引に整備 され、棚状の広い水田に変えられていた。しかし、よく観察すると、水田のほとんどが放置され、かわりにヒエ、ソバ、エゴマ、カブなどの懐かしい作 物が植えられていた。これら雑穀のほうが今はカネになるし、観光客も珍しがるという。しかし、これらの作物は連作が効かないので、前年作った場所ではひょろひょろ。
連作のできる水田の偉大な力を感じるとともに、農業の多様性をたもつために畑作地帯農耕の再構築を真剣に考えねばならないと 思った。
(カンチョー)
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