11月7日(日)午後2時から、吉志部神社の奥田正夫宮司と小山修三館長のトークがありました。
まず建物について;平成20年5月23日に不審火により焼失した吉志部神社本殿は、慶長15(1610)年に建築されたものでした。七間社流造(しちけんしゃながれづくり)という様式がめずらしいのと、軒下の飾りものの彩色がかなり残っていたことなどから、重要文化財に指定されていました。流造というのは神社の本殿建築としては一般的なものだそうですが、その柱間が7つもあった、数が多いというところが、めずらしいのだそうです。ふつう1間に1柱の神様をまつるそうですが、吉志部神社では中央に天照大神(あまてらすおおみかみ)とトヨウケヒメ(あとから入っている)の2つ、両側に八幡さん、春日さん、住吉さん、お稲荷さん、ゑびすさん、スサノヲさんの全国スター(要するに八百万の神様です、と宮司は説明されました)がいらっしゃるそうです。このほか本殿の脇には戦没者慰霊のものや大川社、小宮が並んでいるといるということです。
本殿は天保年間に建てられた覆屋でおおわれており、その前には唐破風をもつ大正7年に建てられた拝殿がありました。焼失後に実施された発掘調査では、本殿の下に拝殿か拝所であったと考えられる建物2棟のあったことが確認されています。建物の主軸が、慶長建築のものと一致していることから、もともと紫金山(あるいはその裏の釈迦ヶ池?)を拝していたのではないかと考えられるそうです。
神社を支える人びと;氏子の組織は、小路(しょうじ)、東、南吉志部、光明町、七尾、寺内(じない)と岸部天道を入れて6ヶ村と1地区で構成(この区分けは、現在の住所番地とは一致するものではない)されています。吉志部神社の再建は、この氏子組織が中心となってすすめられました。日本経済が低迷している時期にもかかわらず、おもいがけない寄付があつまり、ほんとうにありがたかったということでした。本殿・拝殿は来年3月はじめに工事がおわり、その後すこしこまごまとした処理をして、4月の春祭りまでには復興が完了するそうです。
(こぼら)
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