上海万博がついに終わってしまった。史上最多、7308万人の入場者記録を残して…。11歳のときに自宅からわずか徒歩15分の場所に大阪万博がやってきて、へとへとになるまで何度も自宅から歩いて見に行った僕としては、この機会は40年ぶりに来た「大きな波」だった。結局計3回、8日間行ってしまった。
「世の中すべての万博はあとになるほど口コミで混むものだ」という説と直感にしたがって、できるだけ早く…6月の上旬に一度行った。大阪万博のとき、3月の開幕直後にアメリカ館が20分待ちだと聞いて「えー、そんなに!今度にしよう」と言っていたらやがて3時間待ちがあたりまえになってしまい、月の石を見るのに「ああシマッター!」と思った教訓がよみがえってきたのである。6月には3日間、日本館、中国館、日本政府館など「おおどころ」をしっかり見て回った。
しかし40年ぶりの密度感、高揚感に一度で気分がすむはずもなく、9月末に二回目を行った。大阪から上海まで、わずか2時間のフライトなのだ。ところがこのときは、なぜかやけにすいていた。上海万博の入場者は「うしろに行くほど尻上がり的に混む」という単純なカーブは描かなかったのだ。すいていたから思っていたよりたくさん見たはずなのに「これだったらカケコミでもう一回来ても行けるんじゃないか?」と考えてしまったのは万博スイッチが入ったと言うしかない。
二回目から1ヵ月もあかない10月下旬、三回目を決行した。ところがこのときはすごく混んでいた!台湾館と韓国館を見たかったのだが、台湾館はとうとう見ることができなかった。整理券を取るために朝6時からゲートに並んで取れず、次の日は朝5時半からゲートに並んでやはり取れず、それでさすがに諦めがついた。結論。台湾館、人気のわりにパビリオンが小さ過ぎるのだ。そのあたりに中国と台湾の微妙な関係が反映されている。(しかし万博は混んでいないと自分的に萌えない…ということも大きな発見だった。)
行ってみたい、見てみたいけれど大きくパビリオンを構えるのは許さない…万博はオリンピックと並ぶ「世界の祭典」だけれど、現実世界から無縁というわけにはいかない。あくまでも平和で友好的な楽しい会場の中で、敏感に世界情勢が反映されるのが万博だ。それは今回だけでなく、昔からそうだった。1970年の大阪万博に中華人民共和国は参加していない。日本と国交がなかったからだ。当時参加していた「中国」は中華民国だった。
今度の万博は会期前半は中国のめざましい経済発展とならんで語られ、高度成長期の日本の記憶とのアナロジーが、とくに日本人(なかでも大阪人)には「40年前みたい!」という強い印象を残した。ところが9月上旬に尖閣諸島での「衝突」が起き、日中関係が一挙に緊迫するなかで上海万博も招待交流が延期になったり、会期後半は(特に日本から見ると)政治問題と背中合わせの万博になってしまった。経済で始まり、政治で終わった万博。それはまさに今の中国の2つの面をすごくよく反映している。
情勢が緊迫してから僕は二回万博に行き、周囲にも心配されたけれど、不愉快だったり危険な思いをすることはまったくなかった。万博を成功させることは中国のプライドであり、そこで一般観客にトラブルが起きないようにすることは、中国政府にとっても優先度の高い項目だったのではないだろうか。万博会場は(招待のキャンセルなどがあったにしても)「一番守られた場所」だったと思う。
会場中央にひときわ高くそびえる中国館はいかにも国家主義的だという解釈も多く言われたけれど、とにかく7000万以上の中国の人民が(入場者の95%は中国の人たちである。大阪万博でも外国人比率はそんなものだった)きちんと行列して未来都市を体験して「世界を見てしまった」効果は消すことができない。ほんとうの「万博効果」は、万博が終わってからじわじわと効いてくるものだ。それは万博少年だった僕が言うのだから間違いない。
40年を挟んだ2つの万博の一番大きな違いは何だったのだろう?大阪万博はフレンドリーで、上海万博は国家主義的だったのだろうか?
大阪万博を彩った大きなコンセプトで、上海万博では影が薄かったものがある。逆に大阪万博ではごく一部のパビリオンでしか見られず、上海万博ではどのパビリオンでも見られた大きなコンセプトがあった。前者が「宇宙開発」、後者が「地球環境」である。
この40年の間に、人類のテーマは「無限の宇宙」から「有限の地球」に大きくシフトした。それが一番大きな変化だったのではないだろうか。尖閣問題はなぜ起きているのか?それは背後に「資源問題」があるからだ。中国は13億とも14億とも言われる人口と、経済発展への人々の願いのバランスを取らなければ国家の安定が保てない。そのためには資源確保が大きなテーマになる。尖閣問題とチベット問題をくくって中国の覇権主義と見るのは正しいのだろうか?後者は民族問題が背後にあるが、前者は第一に資源問題なのだと思う。資源と環境の問題だとすれば、それは中国に限らず全人類がこれから向き合うテーマである。
大阪万博の頃、米ソの冷戦は世界の緊張関係の大きな軸だったが、それでも宇宙に人々が大きな夢を描けたのは、宇宙が基本的に「無限」の象徴だったからだ。世界の人口は当時まだ36億人しかなかった。
しかしわずか40年の間に世界の人口は70億人にも迫り、人類は地球資源の有限性と向き合っている。だから同じように万博会場が華やかであっても、どこか気づまりな「限界」を感じてしまうのは、当然のことなのだ。それは「中国でやったから」でも「中国館が一番高くそびえているから」でもない。中国はたまたま、一番大きな規模でその課題と向き合っている。そのさなかに尖閣問題が起きたことは象徴的な出来事だった。
この会期中、8月にはチリの鉱山で落盤事故があり、世界が見守るなか劇的な33名の全員救出が10月13日にあった。チリ政府はこの救出に使われたカプセルのひとつを急遽上海万博のチリ館に展示し、これはまさにタイムリー賞ものだと思ったけれど、思えば「月の石」が「地球のカプセル」に代わったのは象徴的だったかもしれない。(中国政府は国内の安全問題に波及することをおそれてこの事故を報道しなかったため、「押すな押すな」にはまったくならなかった。それはひっそりと展示されていた。)
あれ?そういえば2005年の「愛・地球博」はまさに地球がテーマだったな…と、やっと思い出した。しかしわずか5年の違いで、問題はずいぶんシビアになったという感じがする。今にして思えば「愛・地球博」はずいぶん「のどか」だった。オオタカの森を守ろう…という訴えは「身近な環境保全」であり、地球単位での気候変動や資源の取り合いには、まだ距離があったのではないか。
急激な経済成長と、都市への人口流入、都会と農村の「格差」、海外旅行ブーム、輸出圧力と「通貨が安すぎる」問題。1970年当時の日本と今の中国には多くの「類似」が見いだせる。長年続いた「1ドル=360円」のレートが崩れたのは大阪万博の次の年だった。
日本ではその後、1981年のポートピアを皮切りに多くの地方博が開かれた。「都市の豊かさを地方にも」という主張は、1970~80年代をつらぬく大きな政治の流れになり、そのシンボルが田中角栄だった。中国では来年、早くも西安でEXPO2011…世界園芸博覧会が開かれる。「2010年は上海で、2011年は西安で!」という広告を上海の地下鉄で見かけた。
やっぱり万博、行ってみるとすごくいろんなことが見えてくる。40年をおいて2つの万博を比べると、時代がステレオで浮かび上がってくる。
閉幕間近い上海万博会場で、人々は全身でこのイベントを体験していた。夕暮れの中でベビーカーを押して散策していた若い家族、田舎から出てきたのか慣れない手つきでドイツ館の料理を食べていた老夫婦…楽しい思い出の一日になっただろうか?はしゃいでいた子供たちは大きくなった時、どのようにこの出来事をふりかえるのだろう?
国家の思惑と個人の思い出をのみこんで、時代は前に進んでいく。「国」さえも、時代の前には一つのピースでしかない。もう一度、大きな万博に出会えて、ほんとうによかった。来年自分が西安に行くのか、再来年韓国の麗水に行くのか?それはそのときになってみないとわからない。
いまからたとえばまた40年たったとき、インドあたりで万博やってたりするんだろうか?EXPO2050。そのとき自分は(生きてたら)91歳だ!生きてるんだろうか?生きててもヨボヨボかもね。(ヨボヨボでも行ってたりして…)
(by okkun)
コメント
これはまた大変な力作ですねー。4月から、すいはくでは館蔵品を主体にした、「万博展」をひらきます。大阪ー上海をつなぐもの、これは大テーマの一つだとおもいます。ふたたび、市民の皆さんの知恵と活力をお借りしたいと思っています、どうぞよろしく。
つい気張ってしまいました…。たしかに今度の万博は、「40年ぶり」の手ごたえがありました。
91歳のおばあさまは大変元気でした。
okkunがんばれ!
がんばりま~す。インド万博はもっと早いような気がしますね。