吹田と行基のつながり

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春季特別展「大僧正行基展 なぜ菩薩とよばれたか」をすいはくで開催中ですが、なんで吹田で行基さん?と思っておられるかたもいるかもしれません。

奈良時代の僧行基(668~749)は、東大寺の大仏の建立に尽力したことで知られています。彼は四十九院と呼ばれる数多くの寺を建立し、各地に灌漑施設や交通施設を建造し、社会土木事業を行いました。吹田では、「次田(吹田)堀川」「垂氷(垂水)布施屋」を造ったことが、『行基年譜』のなかの「天平十三辛己年記」に記されています。ここが重要!なぜなら「天平十三辛己年記」は非常に信頼性の高い史料といわれており、単なる伝承とちがって、次田堀川や垂氷布施屋が造られたことはまず間違いのないことなのです。

では、堀川や布施屋とはなにかというと、堀川とは水運をよくするための運河で、布施屋は律令制度のもとで税を納めに都へ行く旅人のための休憩・宿泊施設です。

次田堀川について、『行基年譜』の「天平十三辛己年記」に「長七百丈、広二十丈、深六尺」とあり、これをメートルに換算すると、長さ2120メートル、広さ60.6メートル、深さ1.8メートルという大運河でした。所在地については、旧逆川(現西淀川区)がそれにあたるのではないかと考えられています。次田堀川は淀川と安威川―神崎川を結ぶ運河でした。難波と北摂・西摂地方を結びつける重要な河川交通のかなめの役割を果たしました。摂津と河内を結びつける水上交通の道ともいえます。なお、「天平十三辛己年記」は次田(吹田)という地名の初見史料であり、吹田の地名の由来を考える上でも重要な史料です。

垂氷布施屋は、残念ながらその遺構は確認されていませんが、吹田市垂水一丁目の垂水神社付近と推定されています。ここには古くから清らかな水を湧出する霊泉があり、その霊泉を神体としたであろう垂水神社が鎮座していました。行基はこの霊泉に注目し、旅客の休憩、宿泊施設として布施屋を設けたと考えられます。難波から北上する三島路は、吹田の高浜でY字状に分岐します。右に北上すればそのまま三島路であり、左手に向かうと吹田の西の庄を経て、垂水神社の鳥居前に至り、さらに西摂地方へ向かう古代の要道でした。このように、垂水神社前を通る道は、難波と西摂の諸都とを結ぶ重要な古代道路だったのです。

(池池子゛子゛)

コメント

  1. okkun より:

    あの~どなた様か書いていただくのはうれしいんですが…ハンドルネーム(ペンネーム)でいいので最後に(署名)を入れていただくと価値が増すかと存じます。情報氾濫時代、「それを誰が言ってる(書いてる)のか?」ということは大切だと思いますので…。池田さんかなあ…

  2. おーぼら より:

    署名をいれるついでに年号や距離の漢数字も直していただけるとありがたいです。

  3. こぼら より:

    おお、さすが、ご署名も漢字なんですね。ふりがな希望です(笑)
    「イケイケ、ゴ(ー)ゴ(ー)」さん…とお読みしてよろしいんでしょうか?

  4. okkun より:

    そう読むのか!実はイケイケだったんですね。

  5. めいぎゃる より:

    さすが、こぼらさん。その通りでございます。新人の「イケイケ、ゴーゴー」をよろしくお願いいたします。

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