1.センター方式から自校方式へ
私が吹田市で教職に就いたのは、昭和44年(1969)でした。このころ吹田では幸町にある給食センターで、栄養士や調理員が大量の給食を調理しトラックで各学校に運ぶ「センター方式」を採用していました。運搬ルートによれば暖かい出きたての給食が食べられる学校もあれば、焼きソバやうどんが冷えて固まっていたという悲劇の学校もありました。
食器の回収も、早く回収ルートに当たった学校では、子どもたちをせき立てて食べさせ、遅れた子どもの食器を、校務員さんと担任が自転車の後ろに載せて給食センターまで運ぶということもありました。特に4限目に体育があたったクラスは悲惨でした。汗をふいたり、うがいをしたり着替えたり、そして給食のエプロン等を身に付け、配膳室に給食を取りに行き、急いで配膳し、急いで食べさせ、急いで食器を戻す。吹田第六小学校での私の姿です。
ところが千里ニュータウンが開発され、学校も続々と誕生し、給食センターでは調理数が賄いきれなくなり、自分の学校で必要な給食は調理するという「自校方式」が取り入れられました。当時、センター方式の学校に勤務していた教師にとって千里ニュータウンの自校方式は羨望の的でした。
2.学校給食の現状
現在は小学校全てこの方式で調理員が調理した出来立ての給食を子どもたちは毎日口にしています。
吹田の校長から隣の茨木市の校長に「交流人事」を経験して始めて吹田の献立の豊富さ等、身にしみて実感しました。茨木市も「自校方式」を採用していましたが、米飯(白飯)は外部委託で、吹田のような週数回の米飯、しかも季節のたけのこご飯やたこ飯、シラスご飯、ワカメご飯、鮭チャーハン、ちらしずし、手まきずしといった豊富なご飯メニューが懐かしかったものです。3年後吹田に戻って来て、特にこの感を強く感じました。子どもも正直なもので残飯の量が比較にならない位でした。
長年、教育委員会・校長会・教頭会・給食担当教員・栄養士・調理員・保護者代表等が組織する「学校給食会」が子どもたちにより良い給食を提供するため、月1回毎日の給食献立の作製や食材選定、子どもたちが希望するメニューを取り入れたり、アレルギー除去の献立を工夫したり、活躍しています。栄養職員も調理員も新しい献立を考案・工夫しています。このことは教育委員会、校長会で実際にこの委員会を担当してみて初めて分かることです。
私は吹田の学校給食は日本でも素晴らしいと思っています。この春退職し、毎日変化の乏しい昼食をとっている身には本当の『思い』です。
(吹田市立博物館 非常勤嘱託 香坂 康樹)
コメント
昭和40(1965)年にニュータウン内の小学校に入学した者です。ニュータウン内の小学校ずっと自校方式だったのですか?脱脂粉乳が廃止され、ビン入りの牛乳になった頃、センター方式に変わったようなに思うのですが・・・メニューが固定化し、味もまずくなってしまったような気がしていたのですけれど、記憶違いでしょうか?
「吹田の教育環境ホームページ」に、2004年1月~2005年12月の吹田市の小学校の毎日の給食メニューが写真入りで紹介されています。おいしそうですよ。
http://www.ne.jp/asahi/suita/kyouiku-kankyou/subindex.html
吹田は食いしん坊の先生や委員がそろっていたようですね。(失礼)食教育に真剣にとり組んでいたと言い換えましょう。