8月20日(土曜)午後1時30分から講座室では昭和9年のおはなしがありました。
室戸台風は昭和9年9月21日午前8時ころ大阪に最も近づいて最大瞬間風速60m/sという記録はあるが風速計が壊れたのでそれ以上だったのかどうかはわからない。高潮による浸水被害で有名だが、通学時間帯の台風で、校舎が木造だったので学校の被害が多かったのも特徴です。
この台風で吹田市内では豊津尋常高等小学校(現在の豊津第一小学校)で先生が2名、児童51名が亡くなった。ほかにも市内では岸部尋常高等小学校(現在の岸部第一小学校)の倒壊で児童28名が死亡。千里第一小学校も校舎が倒壊(死者ゼロ)した。
当時豊津小学校4年生の山口明治さん(写真左)と吹田第2小学校2年生だった小山健一さんがお話をしてくださいました。
山口さんは
東風が強く雨がひどかったのではだしで登校した。校舎の2階で(たぶん9時ころ授業ははじまっていたころ)校舎が倒壊して下敷きになった。他の児童の親がこどもをさがしにきたが、校舎の下敷きになっている私を救うことなく自分の子どもをさがすばかりだった。自力ではい出して座布団であたまを覆って校庭まではって出て行った。大きな柳の木が根こそぎ倒れていた。学校全体では51人が亡くなったが私のクラスは9人が亡くなった。子どもを亡くした親が数日後から毎日「先生、こどもを返してください」と言いに来たので自習がつづいた。
山口さんがその後手に入れた翌日(昭和9年9月22日)の新聞をみせてくださいました。見出しは右から左へ読みます。
翌日の新聞には大阪府の学校で全半倒壊145校、死者532名とあります。
小山さんは
当時台風とはいわず大颶(おおかぜ)と言ってた。ラジオでは朝から「きょうは大風がきそうだ」と言ってた。現在なら休校になるだろうが当時は「学校は行くところ」であって休むという考えはなかった。母親は私にランドセルも包むカッパを着せて学校に送りだした。私は南吹田から第2小学校に通ってた。現在の市役所から南東に穂波町、南吹田と通って神崎川に向かう道はアサヒビールのトロッコ道で、私たちは「ビール道」と呼んでいた私道だったが私たちはこの道を第2小学校に通った。登校途上の多くの生徒は番傘をさしていたが風が強くて役に立たずずぶぬれになった。私は合羽を着てたので濡れなかったことを覚えてます。当時2年生だった。私の教室は新築の校舎だったが揺れた。古い校舎の生徒が私たちの校舎に移って来て一クラスに3クラスが入って大風がおさまるのを待っていた。
小山さんの奥さんの兄の妻(故石田さん)は亡くなった吉岡先生が守ってくれた5人の児童のうちの一人で、後日NHKーTVの私の秘密に出演したエピソードがあります。
山口さんは(当時吹田におおきな病院がなく)大阪市内の日赤病院に三日間入院した。ベッドではなくムシロの上で寝かされていました。吉岡先生、横山先生のことは知ってるが教わったことはなかった。学校は数日休校になった。その後、何かあると教室の窓から飛び出すという光景が見られるようになった。
その後、山口さんが教師になってからこどもに9月21日に掃除をさせるようにするようになった。
いままでに「室戸台風の経験談を話してくれ」と依頼がたくさんあったが(思いだしたくないので)断ってきたのだがきょうは話をするためにやってきました。
いまでも豊津第一小学校では9月に慰霊祭がおこなわれ、災害の経験を子どもたちに語り継いでいます。
(おーぼら)
ここでブログを読んでる人にクイズです。きょうの参加者なら正解はわかりますね。
当時の児童の服装はどうだったでしょう?(質疑応答から)
1)男女ともに着物(和服)
2)男子は洋服、女子は和服
3)金持ちは洋服。他は和服
4)男女ともに洋服
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コメント
しゅっせきしてなかったのですが、こたえは、4でしょう。