講演会 吹田操車場と吹田事件

10月19日(土)14時から元毎日放送記者で近畿大学客員教授の西村秀樹さんが「吹田操車場と吹田事件」について解説してくださいました。

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吹田事件の時代背景
1945 敗戦 連合国(実質米軍)が支配
1950-06-25 朝鮮戦争はじまる
1951-09-08 サンフランシスコ講和条約署名
1952-4-28 【1】サンフランシスコ講和条約発効=連合国は日本の主権を承認
           ≪≪ 三大騒乱事件 ≫≫
1952-7-21 【2】破壊活動防止法施行

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上記【1】=日本が独立した直後から【2】との間の3か月に戦後の三大騒擾事件(そうじょうじけん)=騒乱事件=が起きた。
1952-05-01 血のメーデー事件(皇居外苑)
1952-06-25 吹田事件
1952-07-07 大須事件(名古屋)

『吹田軍事基地粉砕 平和の夕べ』というタイトルでビラが撒かれていたように、吹田事件は6-24に事前告知された集会から始まった。
2年前に始まった「朝鮮戦争反対」を訴えて大阪大学石橋キャンパスに約900人が集会をした。ビラには集会後デモ行進があることが書かれていたので警察は伊丹基地、刀根山の米軍将校宿舎の防衛にあたった。
集会が終わったのは午前0時ころだった。それからデモ隊は二つに別れ、一隊は西国街道を東に、一隊は阪急電車石橋駅に向かった。その数は3-400人と推定されている。

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石橋駅に着いたが終電車が発車した後だったのでデモ隊は臨時列車を出すように阪急電車と交渉した。阪急電車は曽根崎警察などと相談し、梅田駅に警官を配置する時間を見計らい、午前3時8分に梅田行き臨時電車を発車させた。
デモ隊は服部駅で下車し、徒歩で吹田街道を東進し豊津から現在の吹田市民病院-吹田高校を通って山田村で別動隊と合流した。(ケータイのない時代に実に綿密な打ち合わせがあったのでしょう)

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その後岸辺駅南側を西進して吹田操車場に入り、午前8:06の電車で大阪方面に去ったとのこと。

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この間の行動が騒乱罪だとして起訴されたが、騒乱罪は適用されなかった。

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(おーぼら)

コメント

  1. てつ より:

    参考文献の 岩波書店 西村秀樹著 「大阪で闘った朝鮮戦争~吹田枚方事件の青春の群像」を講演会終了後すぐ、吹田市立図書館に探しに行きました。山田図書館に一冊あり貸し出し中だったのですぐに予約しました。昨夜返却あったとのことで明日引き取り読んでみます。国鉄操車場に群衆が列車で向かったと聞いていたので、てっきり国鉄でと思っていたのが、当時の新京阪?ですか?意外でした。白塗りの米軍専用列車の話も興味をひきました。

  2. おーぼら より:

    西村秀樹著 「大阪で闘った朝鮮戦争~吹田枚方事件の青春の群像」の要約を教えてほしいです。ここにアップします。

  3. てつ より:

    昨日 南千里図書館で受け取りその場で読みはじめました。要約するなんてとんでもありません。50年の前の事件をからまった糸をほどくように 偶然の出会いが奇跡のように重なり繋がってゆく話に引き込まれました。携帯電話のない時代にこれだけの綿密な計画を練った人に先週の講演会ではあまり触れられなかったように思いますが・・中心人物の名前が出たときに、身体が震えました。そして その人の生い立ちから詳しくこの本に書かれています。その方は すぐご近所の方で 同級生のお父さん この人がおられなけれは 日本にフォークソングは違ったものになってたんやないかって方で非常にびっくりしましたが 吹田事件への感心もさらに高まりました。まだ半分ぐらいしか読んでませんが とても面白い本です。

  4. てつ より:

    講演会当日頂いたレジュメのなかに「東洋一の規模のニュータウン・香里園団地」の記載がありましたが、お話にはなかった・・枚方事件のほうで、旧軍事施設のうち香里製造所は払い下げがおこなわれず 香里地区住民一万人の反対署名等が背景になり住宅8000戸の当時東洋一の規模と言われたニュータウン誕生に枚方事件は影響を与えたと記されてあります。

  5. okkun より:

    山越えコースの図に書かれている「瑞恩池」は今の阪大吹田キャンパス前にある「水遠池(ずいおんいけ)」ですね。難読地名でこの字で書かれているのは初めて見ました。どっちの書き方が古いんやろ?このコースは昔からの「小野原街道」で、のちにこの西側が千里ニュータウンになり、東側が万博会場になりました。

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