わたしと万博(19-2)…万国博めざした千日前通建設

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大都市中心部の道路空間は非常に貴重な空間です。しかしその空間は道路法により非常に厳しく規制されており、その規制以外の構造物は作ることができません。深く掘削すれば費用もかかり、工事も難工事となります。

私は幸運にも都市計画道路泉尾今里線(千日前通)と天王寺バイパスの建設に、少壮の技術者として参画する機会を得ました。泉尾今里線は地下鉄千日前線の建設に関連して整備が急がれ、土地を先行取得して昭和45年5月に完成しました。

大阪市都心部の東西方向の幹線道路は都市計画道路の桜島守口線(国道1号、2号)、築港深江線(中央大通)、泉尾今里線(千日前通)などがあります。築港深江線、泉尾今里線は戦災復興事業の土地区画整理事業によって整備される計画が、終戦後の財政難によって未開通のまま放置されていました。その未開通部分をこの万国博関連事業として何とか開通しようと試みられたのです。

築港深江線(中央大通)は立体道路の制度のない時期に船場センタービルの上空を使い、立体道路的構造で建設されました。

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泉尾今里線(千日前通)は国鉄湊町駅(現・JR難波駅)の敷地にかかり、駅の移転交渉に手間取り万国博覧会に間に合いません。そこでとりあえず湊町駅を除く難波・上本町六丁目間だけでも開通させることとなりました。その地下を走る地下鉄千日前線は、国鉄とは別途協議で国鉄用地下の地下占用として開通させ、万国博覧会に間に合わせることとなりました。

難波・上本町六丁目間約2kmは、現道23mの北側に27m用地買収をして全幅50mに拡幅する計画でしたが、難波・日本橋間約1kmは都心部にあるため地下街を設けて全幅員を多目的利用することとなりました。これを断面図で見ると、最下部に地下鉄千日前線と近鉄奈良線が走り、その上に地下街があり、地上に千日前通、その上に阪神高速道路4号線(堺線)が載っています。近鉄は工期が遅れたため、わが国最初の複線シールド工法を採用し、単独で工事を進めました。

地下街と高速道路は一体構造で地下街には杭基礎などを用いず、地下街の浮力と高速道路の荷重をバランスするよう設計されています。さらに道路には電信電話線、ガス、電気、水道、下水道の地下埋設物が縦横に入っており、それぞれの管理者は全く別々であるため、それらの協議には非常な時間と労力がかかったのです。それを万国博覧会に間に合わせるという期限つきで工事をせねばならず、まさに現場は戦場のような状態でした。これをこなし得たのはやはり日本の土木技術の賜物であったと思います。

いま考えると、日本の土木技術は世界に誇るべき水準にあり、日進月歩で進歩しているようですが、その進歩は先輩がなしたこと、われわれがなしたことを元にして更なる進歩に励んで戴きたいと同時に、世界に貢献されることを切に期待するものです。

(MMMM)

※okkun補注:写真は現在の千日前通。大阪市のHPからお借りいたしました。図面は本人ご提出のもの。左下の円形がシールド工法の近鉄難波線。シールド工法とはモグラのようにヨコから掘り進む工法で、上から開削する工法より難工事になります。当時近鉄は「世界から万博に来るお客様を帰りに伊勢志摩へお招きする」という目標のもと、上本町までだった線路の難波延長と志摩への路線整備をやはり急いでいました。以後37年間難波が終点でしたが、この線路をさらに阪神西九条とつなぐ工事が2009年春の開通をめざして今進んでいます。

コメント

  1. こぼら より:

    子どもの頃、次々と地下鉄路線が延びていき、便利になるのが当たり前と思っていましたが、いろいろなご苦労があったのですね。よく考えてみると、これらの路線は、たいへんお世話になっています。新しい地下鉄の駅に入ると、す~と涼しい風が通っているのが好きでした。子どもなので、掘ったばかりの地下の空気は(井戸水のように)一定温度なのかな~、なんて思っておりました。

  2. あかちゃん より:

    ちょっと違う角度から。地下を掘っていて出てきたものはどうなったんでしょう?路線によって、出土品からこの駅の下は鎌倉時代、さらに堀り下げたこの駅は縄文なんて・・・。貝塚なんていっぱい出てきたでしょう。トンネルの壁ひとつ隔てて、いろんな時代を走り抜けていく地下鉄・・・。「大阪の地下展」ー万博を検証するーひとつの企画ですね。

  3. カンチョー より:

    大阪駅前のヒルトンプラザにボーリングで取れた貝などを展示したところがあり、MMMMさんと一緒に見に行ったことがあります。これも書いてもらってはいかがでしょう。考古学遺跡は地下鉄より、道路、団地などの造成でたくさん見つかり、埋蔵文化財法に従って調査されています(こっそり壊されたものも多いけど)。考古学者は反対してましたが、結果的に開発で食っていくことになり、今日の日本考古学の発展をもたらしたのは皮肉というか、再評価すべきというか。

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