文と武というキーワードから現代日本社会を考える

この週末、比叡会議に行ってきました。この会議は、経済界、学会、マスコミなどの論客をあつめて泊まりがけで集中討議するという試みで、IBMが始めた天城会議に端を発し、現在、全国九ヶ所で行われています。京都は歴史が古く、今年で28回目の開催でした。

画像今回のテーマは、「文、武というキーワード2つから、現代日本社会を考える」。会議はまず文と武の定義からはじまりました:
1.文、武という考えは中国に発する。甲骨文からあらわれる。文(徳)は武(力)よりも上で、皇帝のおくりなにつかわれている。
2.ともに行政の言葉である。その思想が儒教として、日本もふくめた周辺地域におよんだ。きわめて東洋的なものだ。
3.イスラム、キリスト教など一神教圏にはないのではないか。いや、一体となっているのではないか。あるいは、文、武ほどの距離感がないと考えるべきだ。
4.シビリアンコントロールが確立している。「ペンはケンより強し」はもとは英語ではないか。
5.ギリシャ神話では、文はミューズ、武はマルスと同じ。それが西洋文化の下敷きである。ただし、ギリシャは多神教。
6.無文字の狩猟採集民にはないようだ。ゴリラもない。
7.日本はもともとアニミズムの多神教、しかし、鎌倉時代から武の世界になり、それ以来そうだ。だから、西欧と近い社会になったのではないか。
8.文武という二項対立ではなく、あいだに「芸」をいれてはどうか。
などなど、定義については、議論百出でした。

討議では具体的な例が論じられました。

1.あの前空幕長の話。「武」の実行者としての気持ちは分からんではないが、あまりにも「文」にかける。すると、文とは国際的常識ということになるのでしょうか。
2.今の内閣とくに景気対策について。行き当たりばったりでは、「文」にも「武」にもならないなー。
3.官僚または役人について。あるスゴウデの経営者は、うちでやれば二割くらいの人数で行けると。その意気を武とすれば、役人のあの余裕は文といえるのでしょうか。武を断行すれば、大混乱が起こる。学校教育、社会教育(博物館もふくめて)などのカネにならないものもあるし。
4.世界金融破綻。折しも、一時1ドル88円のニュースが新聞に出ておりました。経済界の人たちはクラッシュだ、崖っぷちだと真っ青。おー、外国旅行のチャンスなどと言ってる学者たちとは対照的でした。こんな時こそ、武に蹂躙されながら、しぶとく立ち上がり仕切ってきた、京都人の「文」が生かされるべきでしょう。すると「文」とは、洞察力であるわけか。

というわけで、私なりにまとめた報告をしようと思いましたが、そううまくはいきませんです。ここで、マニフェスト出してもつまんないし・・・。私たちの世界は常にゆらいでいて、これだという説得力のある結論などなかなか出るものではありません。「文」の多様性を知り、うまく乗り越えていくこと、それが文の世界のありようではないかと思いました。

(カンチョー)

コメント

  1. KC より:

    えらい、そんなことよくしってたなー。kominamiさんという元京大の先生が講演で言ってたけど、はじめて聞いたのでした。あの先生丸めがね、ぼやぼや髪、マンガみたいな学者の顔してたので、講義いじょうに尊敬の念を募らせました。

  2. okkun より:

    僕も名前変えようかな?…というのはジョウダンですが、「武」は「ホコを止める」という会意文字であると聞いたことがあるので、するとそれ自体にシビリアンコントロールが含まれているのではないかと考えたりもします。

タイトルとURLをコピーしました