ブログの足あと1.(黎明期…2005/10-2006/6)加筆版

画像このブログも間もなく開設4年になります。(はやーい!)doblogからここへの移行作業の時に、僕はあらためてほぼ全部を読み返したわけですが、ブログの足あとは市民の足あと…というわけで、振り返ってソーカツしてみたいと思います。

■タダだからやってみよう…でスタート
初代ブログ「千里ニュータウンが博物館にやってきた」が(doblogで)始まったのは、2005/10/14。関係ないけど鉄道の日でした。本邦初の「千里ニュータウン展」を市民マルナゲでやってみることになり、初委員会が9月4日(このとき、僕はまだいません)。広報しようにもカネがない…という少々ナサケナイ理由から、委員会内部のやりとりはメーリングリスト(ML)っちゅうもんを使ってみ、対外広報はブログっちゅうもんを使ってみようとkattanが提案。当時、市民委員会の1/4ほどはFAX派で、情報が公平にならないんじゃないか?という懸念は当然出たし、だいたい委員長がFAX派だったわけですが、すごく大切な情報は別途連絡すればいいし、とにかく「カネはない」「これはタダ」という事情が勝って、既存手段にプラスする…ということで始まりました。…と思ってたけど全体予算はあったわけだから、やっぱり市民として当世風なやり方をしたかったんでしょうね。

■ウチワから始めた読者作り
内部向けのMLと、外部向けのブログは「ペア」で、ブログはデジタルものの扱いに慣れている数名の委員のみが記入権を持ち、当初は更新するたびにMLで「ブログ更新しました。」とURLを、まずは身内に送っていました。

■最初は皆、ネコかぶってました
当時のブログを読むと、カターイ!たどたどしいし、写真がない記事もけっこうあります。皆の「ハンドル名」(ブログ上のニックネーム)も固まっていません。カンチョーは10月に早くも「館長」ではなく「カンチョー」と自分から名乗り始め2005/11/1から「館長ノート」を書き始めますが、やっぱ、まじめ。で、まじめな「館長ノート」の比重が高いです。記事の数も少なくて、11月は10記事。

■「デジタル・デバイド」、ここにあり!
12月にokkunが入った頃からバスオール探し怪獣の話で盛り上がり始め、だんだん「事務連絡」ではなくエッセイ風の内容も増えてきます。しかしこの状態が約2ヵ月。展示の方向が固まらなかったんですね…。一方この頃MLは日夜活発化し、「一晩40通」というチャット状態が出現。宵っ張りの若手?委員が深夜3時に書けば、朝早く起きてしまう年配委員が早朝5時から返事を入れるというキャッチボールで速い速い。「次の委員会は2週間後…」とか言ってるメールしない派と、スピードが合うわけがありません。とうとうFAX派の委員長が「一晩明けたらえらい話が進んでてさっぱりわからん!」と怒りだす一幕もあり…しかしその陰では学芸員が森の小人よろしくせっせとMLの内容をプリントアウトし委員長宅にFAXしていた…という涙ぐましい事実も。

■ケンカするほど、仲が良い?
このころ「千里ニュータウンとゴジラとどういう関係があるんですか!」という有名な「ゴジラ論争」もメールベースであり、舞台裏はハチャメチャの度を増していたのですが、ブログにはそれが出ていません。あまりの進まなさに危機を感じたおかきたさんは、2006/2/18からは記事のタイトルに【オープンまであと63日】という、自分たちを追い込むメッセージを加えました。要は「ブログの練れ方は人間関係の練れ方」で、数ヵ月前まで他人同士だった一同が本気でケンカをするほど、そのころの委員会は「圧力鍋」状態だったのです。

■ゴンベがタネまきゃ市民がブログ書く!
ぐちゃぐちゃになりながらなんとか開会式の日を迎え、ブログのアクセスも1日100から200に乗る日もあり、こうなるとがぜん面白くなってきて、「告知」と「報告」にブログは威力を全開し始めます。おーちゃん(現・おーぼら)委員の「イベント同時筆記→即時アップ」テクが出てくるのもこの頃から…。4月26日から「てつ」さんの大量コメントが入り始めますが、やっぱり最初は文体が普通なのが、今から読むと面白い。最初は皆、かしこまってたんですよね。

■情報を出している所に情報は集まる
ブログを検索でひっかけて、取材に来たマスコミもありました。1973年に千里ニュータウンから全国に広がったと言われている「トイレットペーパー騒動」について番組を作ろうとしていたスタッフがブログを見て、「ここに行けば絶対に情報がある!」と、博物館に来られたのです。「情報を出している所に情報は集まる」と言われますが、まさにそれでした。皆がやったことをネット上で誰にも読める状態で置いておくことは、いわば会う前に名刺を配っておくようなものです。ブログは広報手段だけじゃなく、地域のデータベースとしても機能し始めていたのです。「ニュータウン展」自身について報道してくれるマスコミもあり、またそのことをブログで書くなど、「送り手」と「受け手」の関係を超えた「情報の輪」も生まれてきました。

■完成しない。それがブログ。
5月中にアップされた記事はなんと91記事。展示が間に合わなさそうになったのを逆手にとってカンチョーが「進化する展示」という名言をあみだし、ブログもフォーマルな結果じゃなくて途中経過をぜんぶ見せてしまえ!と割り切ったあたりからすごくブログが生き生きとしてきます。「途中経過を見せろ」は、まさにネット社会の本質をついた判断であったと言えるでしょう。…そう考えると、ニュータウン展の展示部会がまったく計画的に進まなかったことは、「ケガの功名」と言えるのかも?

■「ひこさん」(70ン歳?)がブログを書いた!
6月2日には、御年70ン歳?(推定)の市民委員「ひこさん」が初ブログを書き、皆拍手喝采!いい記事でした。「文章」と「絵」で構成されているブログは紙芝居と一緒で、昔の学校では「文章を書く」ことを今よりみっちり教えているので、実は高齢者とブログは相性がいい。しかも時間があることを考えたら、そこには膨大な可能性がまだ眠っていそうです。

■しかし突然市民は言った。「あばよ」
しかし当時の「ニュータウン展市民委員会」は「ニュータウン展が終わるまで」という期限付きの委嘱状を受け取っており、市民委員会はニュータウン展終了と同時に解散。市民委員会がやっていた「初代ブログ」も、さよならパーティーをやった2006/6/11の深夜でいさぎよく?更新を止めてしまいます。(つづく)

(by okkun)

コメント

  1. ヨンサマ より:

    「つづく」が楽しみなソーカツ。ひとつのブログのかたすみの記事に終わらせるのはもったいない気がします。来年は「市民参加の博物館」とかいうタイトルでブログ中心の特別展に発展できないでしょうか。

  2. okkun より:

    長くなったので小見出しをつけて、また加筆して長くなってしまいました…。続きもお楽しみに!

  3. okkun より:

    「ゴジラ論争」とは、「千里ニュータウンが造られた時代全体の雰囲気を再現したい」というカンチョーの方向に対して、「千里ニュータウンならではのユニークな特徴にスポットを当てたい」とした展示部会の意見が対立したもの。「ゴジラ論争」っていうとばかみたいですが、ある対象に迫るとき、普遍性で切るか?固有性を取り出すか?という2つの視点はけっこう根源的なものじゃないでしょうか。目玉展示でいうと、ミゼットは前者の、バスオールは後者の代表と言え、両方の視点が揃ったことが、千里ニュータウンを全然知らない人にも昔から知っている人にも「ウケた」理由だと思います。(※バスオールは全国商品でしたが千里で一番売れた。)カンチョーが「固有のものなんて言ったって、アボリジニだって今じゃTOYOTAに乗ってるぞ!」と反論したのには吹き出しましたがすごい迫力がありました…。

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