発掘調査報告書のゆくえ

画像日本考古学協会が永年ためてきた56,000冊の主として発掘報告書からなる蔵書の処理に困って、数年前から引き受け先を探していたが、イギリスのセインズベリー日本芸術研究所しか申し込みがなかったので、検討の結果、適正とみとめて借款を交わした。しかし、会員から異議申し立てがあったので、臨時総会(9/9)をひらき討論した報告書をうけとった。

異議申し立ての反対理由は数点あるのだが、大勢としては日本のコレクションが海外に移るのはイカンという感情論に根ざすもののようだ。これに対して、「国外で日本考古学を学ぶものにとっては大切だ」と賛成の意を表する人もあった(これには私自身の経験からも同感である)。

もともと本が公刊されるのは、「誰が買って(読んでも)もよい」という前提に立つものだ。寄贈を受けた考古学協会も、どう処理するか(整理して有効につかう、公文書的に記録して数年で破棄する等)の明確な方針を持っていたわけではなく、ただ溜め込む一方だったようだ。問題は、それが大量になりすぎたために、コレクションとして文化財的な意味を帯び、愛国心にうったえる感情があふれ出たことであろう。
 
考えてみると、これは考古学協会がかかえる埋蔵文化財の現状にも通じるものがある。バブル期に行政発掘がさかんになり、法にも守られて、国、都道府県市町村に文化財課や発掘財団がつくられた(最近は縮小の傾向にある)。その結果、膨大な土器、石器資料が、未処理のままのこされているのである。かつて、三内丸山遺跡で試算したら、土器がリンゴ箱で4万箱、それを整理し(完全な)報告書を作るには120年かかるとわかった。ひどいところでは、校舎などの空きスペースに詰め込んだままにしているという話もきいたことがある。

本や発掘された遺物は、利用できるように整理されていなければ、その「情報」を引き出すことは不可能で、意味をなさない。セインズベリーでは内容を電子化して世界に発信できる計画だったそうだ。反対派はその対案についてまだ具体策を示していないが、図書館のようにするのか、公文書館のようにするのか、資料を生きたものとして使うためには、場所、人、運営などに大きな費用と明確な将来プランをしめす必要があるだろう。

(カンチョー)

コメント

  1. もぐら より:

    ウチの図書も階段に段ボールに積まれてみれない状態に(…うーん、こんなだと必要なときにみれないんだなあ)。セインズベリーにはいってたら、それこそ電子化してくれるんだったらとっても便利なのにね。)

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