「津軽海峡冬景色」と博物館

画像昨夜も漫然とテレビを見ていたら石川さゆりのショーをながながとやっていた(どうもパターン化してきたなー)。わたしにとっては、津軽海峡冬景色がとくに印象深い。

三内丸山の縄文遺跡がブレークして、縄文時代そのものがみなおされ全国区になり、その結果、東京。大阪、仙台、青森で巡回展をおこない多くの人を集めた。しかし、三丸の内容だけがひとり歩きしたのではなく、そのうらには関係者の必死の努力があった。

その1つは、青森県教委員が、発掘の情報を発見と同時にマスコミに伝えることに踏み切った事にある。それは、今は普通になった「現地説明会」の早い例だが、それまでは「検討を十分おこなったあと発表」が常識で、その十分さとは、発掘をおこなった研究者の報告書が完成した時ということもありうるのである(大英博物館によるクレタ島、クノッソス宮殿がその例で、そのため線文字Bの解読が何十年もおくれた)。新鮮な情報は人々を興奮させる、情報が正確かどうか(将来、どんでんがえしの訂正がないような)は、当事者の眼力と自信にかかっているといえるだろう。

もう1つは、5千年以上も前の縄文時代とはどんな時代だったのかを、人々に鮮やかにイメージさせることが必要だろう。それには、縄文人もわたしたち現代人と変わらない喜怒哀楽のある生活をしていたことがわかってもらえるとよいのではないか。そこで、でたのが「北国の春」を縄文語で歌おうという案だった(あのときもみんな、青森自慢のイカ刺しなど食いながら酔っ払ってたなー)。

真偽はともかく?アカデミックにということで、言語学者の崎山理さんに依頼して、翻訳してもらった。これが意外な反響を呼び、RBA(青森のラジヲ局)でお昼の実況することになり、わたしが出演する事になった。放送を終えて興奮して、三内丸山準備室のプレハブの事務所に帰ってきたら、岡田さんがニヤッととわらって、「よかったですよー。しかし、これで先生は学者として滅びましたね」とお世辞をいった。歌手になってもいいやと思っていたのだが、その後一向に声がかからないのはなぜだろう。もしその夢がかなっていたら、必殺の曲がもう一つあった、縄文版「津軽海峡冬景色」である。

 ♪糸魚川発の丸木舟のったときから、
  三内円山、雪のなか
  北へ帰る人の群れはみんな無口で・・・(中略)
  あー津軽海峡雪景色イー

…と、今夜も悪酔いしているパトカンでした。

(カンチョー)

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