そば打ち実演と試食会がおわって
14時から講座室で国立民族学博物館の中牧弘允(なかまき ひろちか)教授の「上海万博の経営人類学」という講演会がありました。会場には50人を超える聴衆が集まりました。
経営人類学とは中牧先生が新しく提唱した学問で、人類学と経営学を融合させて現代社会に不可欠な会社やサラリーマンなど「会社文化」について研究する化人類学の一分野です。会社を単に利益を追求する経済組織という観点ではなく社員の生活を確保する共同体という観点から捉え、人類が生み出した文化として考えていく学問です。
今回の上海万博を研究するようになったきっかけは
北京オリンピック(2008年8月8~24日)の直前に昆明で開催予定の国際人類学民族学会議の打合せのため北京に行ったときのことです。北京にある中国社会科学院の張継焦教授に出会ったとき教授が「今度の昆明で開く国際人類学民族学会議では『企業人類学』部会を作る。あなた方の研究内容はその部会に入ります」と告げてきました。
私(中牧)は、みんぱくの共同研究の中で経営人類学として会社を中心とした研究をしてたので、「この延長線上で日中共同で上海万博に参加する企業を調査研究しよう」と張教授と意気投合したのでした。私たちは万博の先輩として上海万博が1970年の大阪万博と比較ができるので研究テーマとして面白とおもったことが(今回の上海万博を研究するようになった)きっかけだったのです。
(中牧先生の胸には海宝(HAIBAO)のバッジがついていました)
大阪万博(1970年3月14日~9月13日:183日間)と上海万博(2010年5月1日~10月31日:184日間)を比べると上海万博は大阪を意識して史上最大、世界初を意識したものでした。
≪史上最大≫
会場の面積は大阪の方が(ほんのすこし=2ha)広かったのですが入場者や参加国は上海が圧倒的に多かったのです。アフリカから50か国の参加は特筆すべき事象でしょう。中国が今後アフリカとのつながりを意識し、強化していこうというあらわれでしょう。
最近BRICSという言葉がでてきています。BRICs(ブリックス)とは、経済発展が著しいブラジル (Brazil)、ロシア (Russia)、インド (India)、中国 (China) の頭文字を合わせた4か国の総称で、投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミストであるジム・オニールが2001年11月30日の投資家向けレポートで記載して世界中に広まったきました。この10年間はBRICsと最後は複数を意味する小文字のsでした。
最近(ゴールドマン・サックスは手を引いているのですが、)南アフリカ共和国(South Africa)をくわえた5か国が経済で主体的に連携するようになって、5か国グループの正式名称がBRICsからBRICSとなりました。
≪世界初≫
新興国で初。ベターシティ、ベターライフといった都市のテーマで初。工場地帯と住宅地だった場所の工場や住人を移住させて都市の真ん中で開催したのは初。ベストシティ実践区を設けたのは初で日本からは大阪市が出ました。
≪会場の比較≫
大阪ではエキスポランドという子どもの遊園地を設けたが上海では作らなかったのも特徴でしょうか。
パビリオンの配置は大阪では大国を会場の周辺に配置したのに対し上海では中国を中心にしておおむね世界地図に沿った配置でした。
浦東(ほとう)地区に国家や国際機関の館を配置し、対岸の浦西(ほせい)地区に企業と都市の館を配置しています。コンペでこの配置が決まったのですが、この案は上海の同済大学のものでした。
最大のパビリオン、中国館の設計もコンペで決まりました。会場全体の提案が採用された同済大学の(寺院建築風)案は落選して、華南理工大学の紅色の70mの案が採用されたもの。(70mとは太陽の塔の高さとおなじですね:おーぼら注)
このあと中国館、香港館、台湾館の説明、日本館、韓国館の説明につづいて日本企業館の内容も紹介してくださいました。(中略)
館長乱入後
小山 上海万博へ行った方、感想を。
フロア1 40年の時間を感じました。
小山 勝ったと思った?
フロア1 (笑)そういわれても・・・大阪万博の時は、わたしも若く、万博の手伝いなどもして忙しい思いをしたが、上海はただ見るだけだったので。
フロア2 40年前の大阪万博は生まれていませんでした。愛知万博ではパビリオンの建物がすべて同じでしたので、上海万博は、建物の一つ一つが際立っていたのが印象的でした。写真などで見る大阪万博は、こんな感じだったのだろうと想像しました。
フロア3 ぼくは大阪万博の時は11才、上海万博は51才。つくば、愛・地球博と、ひととおり行きましたが、上海万博と大阪万博が一番似ていた。上海万博は、あの40年前の千里丘陵がここにあるという感じがしました。とても明るくて前向きで、来ている人の顔も明るくて楽しんでいる。マナーが悪いとか言われていましたが、40年前の大阪も同じだったと思います。
小山 中牧さんは、どう思った?
中牧 大阪のモデルが上海に受け継がれている、これは単にそう感じるだけではなく、人的な交流があったから。堺屋太一さんもその一人かと思うが、上海市長にぜひ万博をやりなはれと勧めていますし、それだけでなく、竹内宏さんが団長の経済ミッションが中国へ行ってレポートを書き、万博開催を勧めているのです。そういう青写真があって、実現したのが上海万博、日本が背中を押したような役割を果たしています。だから似ているのは当然。
小山 わたしは、(どちらの万博も)行かなかったせいで、隔靴掻痒みたいな感じ。昨日、吹田から上海万博へ行った権六踊りの座談会をやりました。上海万博期間中、尖閣列島の問題が起こりました。市役所から同行した人たちはピリピリしたようでしたが、山田の人たちは民間交流は民間交流、歓迎をうけていやな思い一つしなかったと言っていました。旅費の13万を自分で払って行ったのだからと、堂々と蘇州へ観光も行ったとたいへん明るかった。
ところで、日本人の観客は多かったのですか?
中牧 圧倒的に中国人。95%をこえると思います。日本人は100万人ぐらいを予想していたが、実際はたぶん7、80万人どまりだった。それでも外国人の中では圧倒的に多かった。尖閣諸島の問題もあったが、万博会場に来る人たちがそれをとくに取り上げることもなく、日本館、日本産業館などのパビリオンに対しても、とくにそれで事件や事故がおこることはありませんでした。
フロア4 経営人類学から見て、上海万博をどう見ているか、もう少し説明していただけませんか。
中牧 万博は経済活動に結びつくような展示をしているわけですが、ストレートに企業活動に結びつけるわけではない。日本文化を紹介したり、企業、都市、あるいは国際機関それぞれが大切にしている価値を、展示や活動を通して示していこうとしているのです。とくに上海万博では、Better City, Better Lifeというテーマを掲げているので、都市に住む人たちにとって、これからの未来のありよう、その人たちの暮らしの先取りが、あそこに展示されるのではないかという問題意識をもって行きました。会場自体が、聖なる空間、お祭り空間なので、いろんな文化に充ち満ちているわけですが、いろんな楽しみや遊びの要素もあって、そのなかで人々がどういう価値観を持ってこれから暮らしていくのか、とくに中国の人たちがこれから、このいろいろな世界の文化、企業活動や都市の生活スタイルをみて、どう変わっていくんだろうか、というところに一つの大きな問題関心がありました。経営人類学と称しているのも、そういう文化的な側面から生活様式にいたるまで注目していきたいと考えていて、そのあたりを主に見て回ってきました。今日、最初の問題提起と最後の結論をうまく結びつけなかったのでわかりにくい説明になってしまい申し訳ありませんでした。
小山 これはいつかまとまって本になったり研究報告になるのですね、とすると、ますますわかんなくなる(笑)。
フロア5 わたしは、万博はお祭りかなというぐらいのイメージしか持っていなかったのですが、先生の話を聞いていて、これは考えなくてはならないと思いました。中国はそう遠くない将来、変わるんじゃないかなという感じを受けましたが。
中牧 上海万博をとおして中国は大きく変わるという印象を私は持っています。中国人にそれを聞くと、いや、前も今も同じだよというけれど、あなたたちが気がつかないだけ(笑)で、昔の日本人も同じようなものでした。日本も、大阪万博を契機に大きく変わりました。生活スタイルがかわり、価値観が大きく変遷していった。同じようなことが今、中国に起こるのではないかと見ています。国家レベルの経営においても、強腰のポーズは尖閣諸島の時にはしますが、上海万博というような文化的な装置をつかって、中国文化、民族文化、企業文化というものを触れさせ、新しい都市の生活様式を体験してもらうことによって意識を変えていく。これからの中国が都市化に向かっていくのは目に見えていますし、工業化はどんどん進む。環境にも配慮した国際的なプレーヤーとして、中国はこれから否が応でも進路を定めなければならないところにさしかかっているという印象を強く受けました。
小山 中牧さんの今後の研究を期待しています。どうもありがとうございました。
(おーぼら こぼら)
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