万博会場の一等地に位置したサンヨー館はメダマ展示のウルトラソニックバス(人間洗濯機)を見るために会期中連日超満員でした。
サンヨー館の入場者数は585万8695人。
会期は180日だったので一日平均3万2千人あまりが入場しました。
(今回の07EXPO70展の目標人数ですね)
三人のゲストを迎え、そのウルトラソニックバス誕生の秘話を語っていただきました。
元サンヨー館 プロデューサー 福田成美氏
当時私は宣伝部製作課長だった。人事と予算を掌握した実質のプロデューサーは常務取締役だった。私は常務のアシストをしていた。半分は本来の宣伝部の仕事、残り半分がサンヨー館パビリオンに関わることだった。
サンヨー電気は1966年に万博参加が決定し、67年に社内の組織をつくる動きが始まり、基本的人事が決まった。パビリオンの建設は竹中工務店に依頼することにした。
67年にモントリオールで万博が開かれていたので常務を筆頭にチームで(ハード・ソフトの)見学に行った。帰国して館のハード・ソフトのアイデアを出すことになった。
経団連(石坂泰三さん)から「サンヨーはパビリオンを出すのに予算はいかほどか?」と聞いてきた。「よそはどのくらい出していますか?」と聞くと「10億円から20億円」とのこと。
サンヨーの井植歳男会長は「せいぜい6億円しか出せない」と言う。松下や東芝の予算の三分の一しかないのだった。「よほどのアイデアがないとまともには勝負できない」と認識した。
モントリオールでは映像技術の進歩がすごかった。コンピューター制御でマルチ映像が始まっていた。また音響装置が立体化し、映像と音響で観客を驚かすことも考えられたが、これだけで2~3億円かかってしまうのだった。
参加申し込みがトップだったので一番いい場所をもらえたのだが予算が6億円。
そこで会長の考えを聞きに行った。井植会長の意見は「年中裸でいられるような“健康の家”を提案しては?」というものだった。
そこで「健康の家」をコンセプトとしてアイデアを出すことにした。
さらに会長は「展示物はサンヨーの総合力を示して、21世紀を先取りするものにしてほしい」とも言った。「作品は単に展示するのではなく、実用できるものでなくてはならない」という無茶な命題でもあった。
68年11月、サンヨー館の地鎮祭が始まったころ製品開発が始まった。各部署から技術者が集まったが、みんな本業を持ったまま集まったのだ。しかも期限の決まった製品開発が求められた。事業部門=製造工場の技術部門からアイデアを出してもらい、中央研究所が収束する作戦を考えた。
ウルトラソニックバス(人間洗濯機)、健康カプセル、フラワーキッチン、家庭の情報センター(インフォメーションセンター)という四つのアイデアが出てきた。
一般に技術者はコミュニケーションが苦手である。これらのアイデアは複数の事業部にまたがるもので、製作はいやでも(コミュニケーションが苦手な技術者の)混成部隊にならざるを得なかった。
井植会長が「6億円で恥かくなよ」と言った。さらに「人肌に触れた展示物は単なる映像と違ってきっと人々の記憶に残る。そしてサンヨーの商品や民生用機器類のアイデアに生かされるものになるだろう」と言った。
現在、その通りになった。いま幕張で開かれているモーターショーで「健康の車」というのが出てる。「身体の芯まで温まるヒーターがついてる」「空調が自在にできる」というものらしいが、「万博から37年たっていま、車の世界で同じようなことが生きてるのだ」と思うと、井植会長の「健康の家」と言ったコンセプトが形になり、観客に喜ばれ、いまなお人々の記憶に残っていることは、私の青春の思い出として「よかったなー」と思える。
ウルトラソニックバス=人間洗濯機は69年11月に完成した。窓ガラスの入っていない寒風吹きすさぶパビリオンで設置作業はタイヘンだった。(消防法もなんのその、)ストーブを入れながらの作業だった。
ポンプが動かないので技術者を呼ぼうとしても担当者は東京の人。やむなく無関係の冷蔵庫の技術者を呼んで治してもらったりしたこともあった。毎日が「どないすんねん?」の連続だった。開幕一週間前にコンピューターが作動しなくなるということもあった。オープン初日に1~2回故障したがその後はうまくいった。
これら展示にこぎつけた作品のほかに没になったアイデアもたくさんあった。たとえば当時、
サンヨー電気は充電式のニッケルカドニウム電池を作っていた。この電池を搭載してスポーツカーレースを企画した。しかしスピードは50キロくらいしか出なかったので没になった。しかしその充電式の電池はバイクに搭載し「カドニカバイク」と名づけて寄贈した。万博会場内で走る連絡用バイクとして活躍した。
サンヨー館を建てた竹中工務店はサンヨー館に幅67m高さ約3mの滝を作った。この滝はポンプ一本で水を均等に流すとういものだった。竹中工務店が開発したこの技術は現在、ハービス大阪の地下街の滝に使われている。
さらに竹中工務店は(梅田の)阪急ファイブで自動調光装置で天井を照明して朝昼夕の雰囲気を出したので覚えていらっしゃる方もいるでしょう。
「万博は単なるバカ騒ぎだった」という人もいるが、大阪以前の万博をみてもその後の社会に何らかのテクノロジーの発展をもたらしている。お祭り騒ぎだがその際に予算がつかなければできなかったものが出てきている。
企業は基礎技術をもっているものだ。洗濯機はポンプと弁の制御が基本技術だ。基本技術をいくつ持ってるかが、企業の力になる。「人間洗濯機のボディがでかい、ボタンが大きい」などは当時のサンヨーに「制御の技術がなかったこと」を物語っている。
万博以後ITができた。いまならあの「家庭の情報装置」などは劇的に小さなものになったであろう。
現在、電池が出番を待っている。軽くて高性能で安い電池ができると、車や路面電車に使われ世界中に需要がある。そのような電池を最初に作るのはサンヨーだと思っている。
37年前に描いた未来像はかなり形になってきている。
万博でに関わった感想:若いのによくチャンスを与えてくれた。
また万博に関与するなら:言葉の翻訳を即時にできるようになれば万博で世界の人と会話ができる。ブースで知らない外国の人とコミュニケーションできるようになってほしい。
ウルトラソニックバス デザイナー 上田マナツ氏
5人のデザイナーで人間洗濯機、健康カプセル、フラワーキッチン、家庭の情報センター(インフォメーションセンター)の四つをデザインした。インフォメーションセンターが最も金をくった。
人間洗濯機は開幕前から評判になっていた。ビキニのお嬢さんが風呂に入る、しかも横から見えるのだから評判になるのも当然だった。新聞記者も数多く報道してくれた。
現在の入浴装置の原型だった。サンヨーは洗濯機で有名だったが、「人間を洗う」のテーマにはデザイナーも驚いた。
当時「子宮回帰」という言葉が流行ってた。「(人類にとって心地よい空間を見つけ出す)子宮回帰の考えを取り入れるには卵型がよかろう」となった。
当時のサンヨー洗濯機の新製品ではジェット噴流というものがあった。このジェット噴流を取り入れ、直径5cmで比重が1のコンペイトウ型ゴム球を入れるとジェット噴流に乗って身体に当たり、マッサージ効果があった。背中にもマッサージ器を設けた。
ホステスにも全員入ってもらった。(そのときには窓ガラスに新聞紙を貼って外から見えなくした。)このようにホステスさんにも体験してもらった。
これらの作品は近未来に商品化できるものの形での提案をした。館の中で未来の生活ができるという考えを形にした。そしてこれらは現在の介護用入浴装置やカプセルホテルに繋がっている。
当時私たち技術者は将来の夢を漫画にして残した。そのときから環境に配慮した技術の開発の考えが始まっていた。ソーラーシステムも当時からの考えで、こんにち日本の(シャープ・三菱・サンヨー・京セラの)四者で世界の80%以上を占めている。サンヨーは10年前にグライダーの上に超軽量のソーラー発電パネルを乗せ米大陸を横断したことがある。
千回充電できるサンヨーの電池が(車、建物などを含めた全企業の中で)昨年、通産省のグッドデザイン賞の大賞をとった。サンヨーが大賞をとったのは初めて。OBとしてうれしい。この意味でも電池に期待したい。
Q:人間洗濯機は何台つくったのか?
三台作った。万博の二年後にアルゼンチンで健康博があったので、人間洗濯機、健康カプセル、フラワーキッチンの三つをプレゼントした。その後アルゼンチンでどうなったかは知らない。現在すいはくに来ているものと、残る一台はこわれたので壊した。(予備を含め)この三台を同時に作った。
万博でに関わった感想:デザインしたが、これほど多くの人にみてもらった。そのときめき。
また万博に関与するなら:東西文明の融和を図って環境にやさしい、公害のない技術開発を求める。
元サンヨー館コンパニオン 横山さゆりさん
建物(パビリオン)は日本の民家風。周囲には池がある。そこには「世界の水」として各国から集めた水を流していた。
パビリオンの案内
館に入ると(館の最後の部屋にある)家庭の情報センターと連絡するテレビ電話がある。当時はテレビ電話は非常に珍しいものだった。
つづいて赤い絨毯を歩くと「日本の四季」を音と光で表した部屋に来る。
春は小鳥のさえずり、夏は稲光と雷鳴、秋は祭ばやし、冬は低い太鼓の音で雪を想像させた。そこには椅子もあったのでゆっくりと音と光を楽しめた。
次の部屋にウルトラソニックバス=人間洗濯機が控えていた。その向かいにフラワーキッチン、つづいて健康カプセル、家庭の情報センターがあって出口に繋がった。
私はウルトラソニックバスの担当だった。モデルの人に一日に4回、バスに入ってもらった。私がボタンを操作して、人間を洗濯-乾燥させていく過程を説明した。その時間(ショータイム)をお客さんは心待ちにしていた。その時間になるまでウルトラソニックバスの前で陣取っていた。
ウルトラソニックバスの説明
「日本民族は風呂に入るのが大好きな民族だ」の言葉で説明を始めていた。
モデルがはしごを上って中に入り椅子に座る。そこで私がボタンを押すと椅子が下がっていく。クビまわりの蓋はモデルさんが手動で閉める。
次のボタンを押すとシャワーが出る。シャワーが終わるとお湯がたまってくる。一定量になるとジェット噴流が始まり、コンペイトウ型の小さなボールが身体に当たるようになる。
(私も経験したがとても気持ちが良かった。開幕前の寒い季節に経験したがとても暖かになったことを覚えてる。)
洗い終わり、お湯が抜けると再度シャワーが始まる(=すすぎ)。次は温風で身体を乾かす。その後椅子が上がってモデルさんは外に出る。
お客さんから「入らしてもらえないのか?」「ねーちゃん、アンタ入ったんか?」「どんなんやった?」「洗剤を入れなくてホントにきれいになるのか?」「ホントに乾くのか?」「痛くないのか?」などなどたくさんの質問があった。
「装置の表面の素材は何だ?」「温度調整はどのようにしてするのだ?」などの技術系の質問もあった。開幕当初、私たちは説明するのが精一杯。そのような技術系の教育は受けていなかったので裏に回って技術者さんに質問して、「FRPです」などとお客さんに回答していた。
開幕当初は故障した日もあった。寒い日にお湯が出ず、水しかでないことがあった。その日は「本日は実演はありません」の張り紙を出した。
「モデルが椅子に座ったが椅子が下りない」「下りたら上がってこない」こともあった。やがて故障はしなくなった。
ウルトラソニックバスの隣ではフラワーキッチンがあった。フラワーキッチンは電子レンジ、冷蔵庫などがセットされた、現在ではあたりまえのキッチンだった。冷蔵庫には果物が入れてある。毎日夜に食べた。
家庭の情報センター(インフォメーションセンター)では「新聞が毎日自動的に配送されてくる」「遠隔地とテレビ電話ができる」もので当時は「ウッソー、こんなことできるの?」の世界だった。現在はこれらすべてができるようになっているのは感慨深い。
毎日説明してると自分の説明は完璧に覚えてしまう。空いてる時間に向かいのフラワーキッチンの説明を聞いていると自然に覚えてしまった。慣れてきたら担当を交代してフラワーキッチンの説明をしていたこともあった。
あのサンヨーパビリオンは現在カナダのブリティッシュコロンビア大学にある。サンヨーが寄贈した。日本史博物館になっている。私たちは万博後20年目の同窓会でにカナダに行って見てきた。
ウルトラソニックバスの中にあったコンペイトウ型ゴム球は万博終了後に分けてもらった。
万博でに関わった感想:「会場内には毎日外国人が歩いていた。毎日が海外旅行。毎日が青春だった」
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サンヨー館のポスターに写った横山さんを捜しました。
トークショーが終わっても横山さんはひっぱりだこでした・・・
07EXPO70展で
ウルトラソニックバスの展示は10月28日で終了しました。
(おーぼら)
コメント
おーぼらさん、しんどいでしょうが、進化を楽しみにしております。
トークショウの様子がよ~く、分かります。博物館へ足を運ばずとも、博物館へ行った気になってしまいます。これって、博物館の収益も、来館者数にも入らずもったいないね。
ううーん、進化する内容、おーぼらさんに拍手ですっ。てつさんと同じに冷蔵庫の中がどうなったか?気になりました。今回…バナナは…?サンヨー館の当時の息吹きが伝わってくるようですぅ。
やはり ここでも 展示品を 食べたのか?^_^;
いや 展示品の 冷蔵庫の中身の 果物を食べたのだから 展示品ではないのか・・・?
博物館で バナナを食べたあなた・・ まだ 時効ではないですよぉ(^^ゞ
幻のもう一台はチリに行ったらしいです。そこいらあたりは、まだ本文にアップできてていません。まだ残り30分のトークが未掲載です。本文は今夜あたり、進化するかもしれません。(でも、「進化」ってしんどいことですなぁ)
買いたいけど、うちのアパートに入れると、寝ると来なくなるんだよねー。
ウルトラソニックバス(人間洗濯機)、実機は3台同時製作され、現在1台はサンヨーミュージアムに現存(これがすいはくに来ている)、1台が海外(どこだったかな?)に寄贈され、1台は処分されたそうです。現存する1台を作動する状態に修理することは、技術的には難しくないだろう、ただしオカネが…とのことでした。いくらぐらいかかるのかお尋ねしたところ、「数百万円」だろうとのこと。数千万円はかからないが手造りで作っているので修繕部品も手造りになる…とのことでした。
これだけ世の中に夢を与えてくれたウルトラソニックバス、数百人が一万円づつ出せば動くのかと考えることもまた楽しいことのような気がしました。