「万博の基幹施設の計画にかかわって」川崎清先生講演録

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11月17日(土)、「万博の基幹施設の計画にかかわって」と題して、京都大学名誉教授、環境・建築研究所主宰の川崎清先生の講演がありました。お話の概要をアップいたします。

◎1964年、東京オリンピック開催後間もなく万国博の開催地の検討が始まった。
◎西日本の経済的地盤沈下の回復起爆剤として、近畿圏の道路網整備を画した。
◎1965年9月1日、テーマ委員会が発足。同11月「人類の進歩と調和」のテーマと基本理念を設定。

◎1965年11月~12月 日本万国博覧会基礎調査。
京大万博調査グループが参加。代表西山夘三、土木・建築・造園の若手教官がメンバーとなり、私も一員に加わった。基本理念を会場計画に具現化するための諸条件の整理、検討し、次のような知見を提案した。
1.科学技術に限定されることなく、人類の多様な知恵が広く表現できる場とすること。
2.人間疎外が進行しつつある中で、新しい人間接触、人間交歓のレクリエーションの「形」「場」が創造されること。
3.進行しつつある自然破壊と環境悪化に対して、本来の人々の生活に適合し、科学技術の裏打ちされた新しい国土像を打ち立てる計画であること。

◎1967年、カナダ モントリオール万国博、その他の見学をしたが、収穫が多かった。
◎会場計画・建設をめぐる関係者の思惑と綱引き
○官界、業界、学会など関係者間に国家的プロジェクトと位置付けながら、イニシァティブをめぐり綱引きがあった。オリンピックは東だったので、万博は西とする綱引きも。
○万博会場を小マルと呼び、周辺近畿圏の開発整備エリアを大マルと呼び、大マルは土木、小マルは建築がリードするという暗黙の了解があった。
○学会では会場計画は都市計画家がやるべきか、建築家がやるべきかの議論があった。

◎1965年12月21日、会場計画委員会発足。土木、建築、都市計画のオーソリティが集結。
○委員長:飯沼一省(日本都市計画協会会長)
○委員:高山英華東大教授、石原藤次郎京大教授、西山夘三京大教授、丹下健三東大教授、坂倉準三等15人。
○委員会の主な仕事は 1.会場計画原案作成者の選考、2.原案作成者や万博協会に対する助言、3.原案の審議
○同日、原案作成者として、西山夘三、丹下健三の両教授が選任。共同責任で原案を作成するが、前半(1966年2月~5月)を西山教授、後半(同年5月~9月)を丹下教授が指導という変則になった。両派のバランスを考慮したもの。
○原案作成委員会を組織するようになり、次のような若手建築家を指名。磯崎新、上田篤、大高正人、加藤邦男、菊竹清訓、曽根幸一、私・川崎清を含め12名。

◎1966年2月、私・川崎が会場構想を自主提案し、専門誌「新建築」6603号に掲載され、一時有力案とされたが、実現には至らなかった。
○提案内容は、パビリオンは空中に、地上には実験農場と緑地公園。意図は、環境不安解消と持続的社会への模索であった。

◎1966年2月~10月 会場計画原案作成
○西山夘三主導の第1次案、第2次案では、中央に人工地盤を置いてシンボルゾーンとし、それを核に展示ゾーンをクラスター配置(ぶどうの房型)。
○丹下健三主導の第3次、第4次最終案では、シンボルゾーンを中心に回遊型と放射状の幹線道路にサブ広場を要所に配置して、二つのシステムを重ね、入場者の分散流動をはかった。

◎1967年2月~1969年3月 基幹設備設計
○1967年2月10日、基幹施設プロジューサーに丹下健三を委嘱、この下で12人の設計スタッフが選ばれた。
○太陽の塔、岡本太郎。噴水などイサムノグチ。万博美術館、川崎清など。

◎万博美術館について
○南面の屋根は太陽光線に応じ開閉出来て採光調整が可能となている。北側のロビー部分はガラスとし、自然採光のできる開放的なものにした。一方ギャラリー部分は閉鎖的で、展示物の安全を考慮している。
○会期後、国立国際美術館として活用されながら、比較的短期に撤去されたのは残念だが、運命だろう。撤去の理由は老朽化ではなく、国立国際美術館の入場者が少ないため、大阪市内に移転してしまい、残された建物の利用の目途が立たないからであった。

◎万博の総括
○大阪万博は高度成長にはずみをつけるイベントとなり、20世紀の都市開発が人々に希望を抱かせる一方で、地域的な環境汚染の顕在化が漫然とした不安を感じさせた。
○私には、技術者としての青春期である30歳代に、このような事業に参加できたのは幸せであった。万博に携わった若い人達からその後の日本を支える人材が生まれた。まさに「お祭りが終わって人が残った」と言える。
○万博の語り部が少なくなってきた今、私が話す機会を与えられ嬉しく思う。静聴に感謝。

(報告:岡村)
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京大の西山夘三氏と東大の丹下健三氏の対立は有名で、最終的には丹下氏の主張が強く通ったとされていますが、西山氏の主張がなければこうはならなかっただろうという要素も多く見られます。(西山氏は千里ニュータウンの構想を作られました。)まさに万博は「日本の東西の叡智を集めた」プロジェクトであったと言えるでしょう。

※西山夘三氏が撮った日本の住居の写真を集めた「昭和の日本のすまい」という本が新刊で出ています。家が語る昭和史。読みごたえがあります。(okkun)

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